蓮と極楽と金襴

金襴とは西陣の中では主に「神社仏閣の荘厳」に使われる布地を指します。寺院の本堂に掛かっている内敷、僧侶の着ている袈裟。

宗派によって色々ではありますが、法然が築いた浄土宗、その弟子親鸞が興した浄土真宗などではとても煌びやかな金襴地が使われます。

蓮池
蓮池

なぜか?以下、私の考えを書きます。僧侶、お寺関係のお友達、詳しい方、間違いがあったら教えてください。

鎌倉時代初期の末法思想の広まった世の中、貴族の支配から武士の支配へと激変し、戦乱・飢饉により、洛中が荒廃した時代背景の中、法然、そしてその弟子である親鸞が現れます。法然は、浄土宗を興しました。親鸞は、ひたすら法然を師として愛し、自ら宗教を興す気はありませんでしたが、死後、弟子たちが浄土真宗という数多くの門徒を抱える教団として発展させていきました。

この浄土宗の本願はずばり「極楽浄土に往生すること」。ものすごく解りやすいですね。人が物心ついたときから恐れだす「死」から目をそらすのではなくて、死を見つめ「終末をみつめ、極楽浄土へ往生するため」に「南無阿弥陀仏」という6文字を唱えようというとても解りやすい、我々怠惰な一般人には魅力的な宗教なのです。

そういう本願を抱いていますからお寺の本堂などには「極楽浄土」を模した紋様が沢山使われます。お寺はすでに古くなっているところが多いですから、今現在はひたすら渋く見えますが最初は色鮮やかな「まさに極楽とはこのようなところなのか。是非お経を唱えて混沌としたこの世の中から極楽浄土へ往生したいものだ」と思いたくなるような綺麗な空間だったのです。

蓮の花の画像。私も少しだけ極楽気分を味わいました。

蓮は極楽浄土に咲いていると思われる花の候補第一番だと思います。仏たちは蓮華舞う芳しい空間の中蓮華のはなびらを踏みしめ、蓮の葉に溜まった朝露を飲む。仏教においてとてもシンボリックな花です。
諺でも「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われるように「純なるもの 聖なるもの」として扱われています。

蓮池
蓮池

当社の金襴でも蓮の花は沢山沢山、使われています。金襴という布地は「怖いと思っていた死後の世界が実はとても綺麗だったらテンション上るからより一層本願が成就するよう南無阿弥陀仏にはげみましょ!」の為の布だと思っています。今も昔も綺麗なものはテンション上げます。テンション上げるための金襴」。蓮が咲き乱れ、天女が舞い美しい雅楽が奏でられている、そのような情景を映し出してお寺を美しく飾るのが金襴の役目です。残念ながらインターネット上に弊社の豪華絢爛な金襴を載せる機会は無いと思いますがどうぞ、お近くの寺社をお訪ね下さい。法要などに当たれば美しい金襴地をお眼にすることが出来るはずです。

極楽に思いをはせて。一時の極楽気分を。

蓮と言えば世界中で古来から愛されていますが大阪中之島の東洋陶磁美術館での「特別企画展「蓮―清らかな東アジアのやきもの×写真家・六田知弘の眼 」が非常に秀逸でした。もう一度行きたかった・・・。

FBにて浄土真宗の僧侶の方よりご指摘を頂きました。以下追記させていただきます

少々~本願について捕捉しますと…往生への憧れはあったかと思いますが、法然も親鸞も死を見つめる死生観を説くというより、インドやアジアと違い日本の仏教は、大乗仏教を教義にしてるので、誰もがこの世で救われ生きていける。浄土衆では南無阿弥陀の六文字の名号を唱えるだけで極楽往生がすでに約束されているから、安心してこの世の中で生を強く生きなさい、お念仏しなさい。生き方の方に本願が置かれています。浄土真宗はさらにその生き方の本願に阿弥陀仏自身が力を貸してくださる(=他力本願※他力とは本来、阿弥陀仏のこと)阿弥陀仏を前に仏性を育み心のなかに安心、安寧を置く手法、生き方を教えています。

だというお話でした。

「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」という名のついた文章があります。
浄土宗の開祖と仰がれた法然上人が死の直前に自身で記した遺言のことです。
今でも金戒光明寺で原本が見られるそうです。すごいですね。1212年2月の遺言書が現存しているなんて。

元祖大師法然上人御遺訓(ごゆいくん)
一枚起請文

唐土我が朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。
ただし三心四修と申すことの候は、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ううちにこもり候なり。
このほか外に奥ふかきことを存ぜば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
為証以両手印。
浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。

軽く訳すと・・・間違ってたらすみません。

私が皆に伝えている「お念仏」は、中国や日本のみ仏の教えについて勉強をしてきて詳しいえらい僧達が説いてはるような、み仏や浄土を頭の中に静かに思い描いてお唱えするような「お念仏」ではありません。また、み仏の教えを勉強して、「お念仏」の意味を理解してお唱えするような「お念仏」でもありません。

阿弥陀様のいはる極楽浄土に往生するためには、ただ一つ、「南無阿弥陀仏」を唱えなさい。極楽往生が疑いないと信じて「お念仏」を唱える以外に、何も必要ありません。

ただし、三つの心「三心」と四つの態度「四修」がお念仏をお唱えする人には必要ですが、往生しようと「南無阿弥陀仏」とお唱えしているうちに自然と備わってくるものですから大丈夫。

私が今まで皆さんに伝えた「お念仏の教え」以外に、何か他に深い教えを隠しているならば、阿弥陀さまやお釈迦さまのみ心に背く事となり、私自身が阿弥陀さまの本願の救いから漏れて外れてしまうでしょう。

「お念仏」の教えを信じない人は、お釈迦様が生涯を通じて説かれた教えをしっかり学んでも、その一文さえ知らない修行もしていない者と変わりない事を自覚しなさい。ただ出家して髪を下ろしただけの無知な人たちが、それでもお念仏を熱心に唱えるように、知恵があるもののように振舞わず、ただひたすらに「お念仏」を唱えなさい。

以上の事を私の両手を印にして、み仏にお誓い申して証明します。

浄土宗の心の持ち方や行いのあり方は、この紙一枚に書かれている事だけです。私、源空(法然の本名)にはこれ以外の「お念仏」についての考えはありません。私の滅した後に「お念仏」の教えについて間違った考え方が出てくるのを防ぐために私の考えてきたことをここに書き残しました。


訳に変なところがあったら申し訳ありません。

法然は入滅が79歳という鎌倉時代にしては長生きのお人でした。10歳くらいから僧の道へと入ってはるのですが、約70年近く考えてきたことをこの短い文章の中に書きこめられて(しかも死の2日前)、自分が興した浄土宗という宗教、生き方、について「この一枚に書いていることが全てだ」と言い切れるこの素晴らしさ。

法然上人のお弟子さんである親鸞聖人とその弟子の話「出家とその弟子」は私の愛する一冊。意味は解ってないと思いますが好きなのです。私のような無学なものでも名前を知っている「親鸞聖人」。その人にも青春時代があっておおいに悩んでいるのだ、という衝撃。諦めたかのような「他力本願」。確実とは言い切れない阿弥陀如来の力を信じる心。昔の私(今の私)にも現実と「信じる世界」の狭間におぼれそうな辛さを感じる本です。信じれば仏。いや、信じることが出来たら仏ですね。

私はのたうちまわって生きていこうと思います。

今も昔も綺麗なものはテンション上げます。テンション上げるための金襴ですわ。今日の織屋の賄いは丸大根の粕汁。粕がまるでクリームのように濃い濃い粕汁が出来ました。

丸大根の粕汁
丸大根の粕汁