西陣織 金襴について

西陣織 金襴について

シルクロード

紀元前三千年から紀元前二千年の頃に中国ではすでに養蚕が行われていました。
紀元前二世紀頃、古代ローマから日本まで「シルクロード(絹の道)」と呼ばれる交易路が生まれました。
道はあらゆる文化を伝播します。
中国の絹がローマや、日本に運ばれ、西からは宝石やガラス器、貴金属が運ばれました。

正倉院の紺瑠璃杯
正倉院の紺瑠璃杯

技術の伝播

金の薄板を生地に縫い、または貼り付ける布地がシリアやトルコ、ペルシャ方面にありました。やがて金の薄板を細く切り、糸に交える金糸が造られ、綴れ織りや刺繍用に用いられるようになります。
中国ではシリアなどから金糸を輸入して綴れ織りや刺繍用に用いました。その後、紙に貼った金箔を糸として細く、強度を持つ金糸に発展させ、紋織の織物が生産されます。
日本にも、大陸からの人の往来や渡来人の帰化とともに養蚕、製糸、絹・絹織物も伝わりました。
機織技術は三世紀後半、渡来系氏族の弓月君、秦氏一族が帰化し、技術を伝えました。
中国・呉国からは織姫四姉妹・呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)を招いて教授を受けます。
飛鳥時代の遣隋使・遣唐使やシルクロードから輸入された品々、金襴などは正倉院の宝物殿等に今でも伝えられています。

金の織物 金襴

西陣の金襴はもともと中国・宋代に織られた唐織物の一種です。

① 中国から渡来した織物。また、それをまねて日本で織った織物。金襴きんらん・緞子どんす・綾あやなど。唐織物。
② 絹織物の一。三枚綾の組織の地に様々な色の絵緯えぬきを用いて花鳥・菱花などの模様を表した、刺繡ししゆうのように見える織物。
③ ② で仕立てた能装束。女装束の上衣。まれには公達きんだちにも用いる。
コトバンクより https://kotobank.jp/word/唐織り・唐織-234448

西暦794年、平安京への遷都が行われると、京都市上京区上長者町あたりに織部司(おりべのつかさ)を組織し、高級絹織物を織り始めました。
平安時代も中期、後期になると官営の織物工房は衰退し、職人たちが自分で製織業を営むようになります。
平安時代後期には「末法思想」により、荒廃した時代が到来。浄土信仰が盛んになります。
仏教は浄土信仰を民衆に解りやすく説くために「極楽とはいかに美しい場所なのか」を説明することが必要となり、極楽を模す為に、寺の堂内を美しく装飾しました。
その為に使われた美しい布地、それが日本の 西陣織 金襴だと私は考えています。

11年続いた応仁の乱により、職人たちが疎開、しかし、戦乱が治まると職人たちは再び京都に戻り、今「西陣」と呼ばれる一帯で織物業を再開しました。
西陣という行政区域は特別にはありません。西陣」と「西陣織」は「西陣織工業組合」の登録商標です。

西陣は応仁の乱より550年の間続いています。

西陣織工業組合でも大々的に「西陣550」応援キャンペーンを開催中です。

西陣と呼ばれて550年
西陣と呼ばれて550年

金襴業界でも年に一度「金襴展」を催しておりますので、是非足をお運び下さい。