昨日はチャーリー・チャップリンの誕生日でしたが、今日4月17日はどのような日でしょうか。ちょっとピックアップしてみます。
私の好きな太閤秀吉が1594年に吉野の花見を催した日だそうです。(文禄3年の2月27日←私、旧暦とかよう解らないのですが、旧暦の2月17日は新暦の4月なんですね。) 田植えをする上では旧暦のほうがわかり易いといいますよね。
この吉野の花見の時には3年前から朝鮮出兵開始が始まり、花見の前年に秀吉が56歳の時に二番目の子供である「秀頼」が誕生。(近江長浜城主、羽柴秀吉時代にも羽柴 秀勝という実子がいたそう。長浜で今も行われるユネスコ無形文化遺産登録予定の曳山祭は、天正2年の「秀吉 男児誕生」を祝して始まったという伝承もあるそうなので3人目の子供かも。)なんと今年の曳山祭は2015年4月13日(月)~16日(木)だったそうで、昨日でお開きでございました。
吉野の花見。吉野の花見は秀吉が徳川家康、前田利家などの大名や公家衆など総勢5千名を引き連れた凝ったもので5日間続いたそうです。。吉野山に数寄を凝らした茶屋を建て、様々な仮装等をしたりして思い思いに楽しんだという豪華な宴。この花見に合わせて花見の本陣となる吉水神社では狩野派の有名な絵師が襖絵や障壁画を描き、建具も取り替えて秀吉やねねが宿泊したそうです。
上記の豊臣秀吉と浅井 茶々(淀殿)との初めての子供鶴松が3歳で亡くなってしまった時も秀吉は悲しみにくれながら有馬の湯に来たそうです。その秀吉が来ていたであろう豊臣秀吉が築造した「湯山御殿」の遺構の一部が発見されたというお寺「有馬 極楽寺」です。今日のブログはそこの事を書かせていただきます。
蒸し風呂、岩風呂、庭園の遺構を展示してある「太閤の湯殿館」という施設があります。阪神・淡路大震災で倒壊した極楽寺庫裏の下から発見された遺構だそうです。
極楽寺は593年に聖徳太子に創建された浄土宗の寺です。こちらの極楽寺のお釈迦様がとても迫力ありました。↑の画像でもちらりと見えます。
いやん。残念ながら写真にすると迫力が減ります。とても立派な火除観世音菩薩でした。金襴地もちらりと見えますが写真が暗くて遠くて撮れませんでした。
すぐ左横にいはったお地蔵さん。左右に立像の地蔵を従え、周囲に7体の座している仏?をめぐらせ、火焔に包まれていはります。でも左手に宝珠を持ってはるのでお地蔵さんだと思うのですが・・・。薬師如来かもしれません。多くの場合、薬師如来は両脇に日光菩薩・月光菩薩の二人、
十二神将を引き連れてはります。左手に持ってはるのは「薬壷」かもしれません。
「善光寺」と書いてありますね。有馬の極楽寺は長野の善光寺と関係があるのでしょうか。
↓こちらは行基菩薩の像。
有馬の歴史としては神代の話としては大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神が「有馬の湯」を見つけはった。三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴しているのをこの二神が見かけましたが。そしてそのカラスの傷は数日で治っており、その水たまりが温泉であったという伝説が伝わっています。この三羽のカラスは「有馬の三羽からす」と呼ばれています。行基さんの横にも「有馬の三羽からす」の像がありますね。
歴代の天皇も行幸しはって「有馬の湯」はその名を広く世に知らしめたのですが衰退する事もありました。そこへ現れたのが奈良時代の僧でありながらほとんど大型土木工事を請け負う親方のような「行基」さん。
大坂平野の北に位置する伊丹で大池(昆陽池)を掘っていた行基さん。体に悪いものが出来て苦しんでいる人が「有馬には温泉があり、病気には大変良いようです。なんとか連れて行ってください」と頼み込まれたそうです。行基さんは困っている人を見ると助けずにはいられない上に、かつ、その願いをかなえることの出来る実力のあった人なのでしょう。哀れに感じ、その人を有馬に連れて行こうとします。その道中にもその人は色々と行基さんにお願いをしてきて行基さんも人が良いのでその願いを叶える為にがんばりました。その願いが叶うとその人は仏の姿へ変わり、「有馬温泉を復興するように」と言い伝えて当方へと紫の雲で去って行ったそうです。
行基さんは感激してしまい「如法経」を写経して有馬のどこかの泉底に埋めたそうです。そして等身大の薬師如来像を刻み、お堂を建て薬師如来像を納めたそう。その収めたお寺が近々UPさせてもらう「温泉寺」さんだと思います。
そしてそれ以来有馬は賑わったようです。インフラストラクチュアの神様ですね。ちなみに私のブログでもご登場されています。北区豊崎 道引地蔵尊(行基菩薩開基南濱墓所)
今日の織屋の賄いは鯖を焼いたん。ほうれん草のゴマ和え