こんにちは。京都の西陣織屋、岡本織物です。毎日織物に埋もれて暮らしています。
しかし、東京に行った時に色々なところで金襴を探してきました。いや、金襴を探すのは二の次で色々な神社仏閣見物。面白い!
正春寺と諦聴寺を見学した後、熊野神社へ向かおうとパークタワーの西側の十二社通りを歩いていました。
壁に↓のような文字が。「銀世界稲荷神社」・・・?名前に惹かれます。迷う事無く右に曲がります。
パークハイアットの空中庭園っぽいのかしら。このパークタワービルには何回も来てるのですが、この神社の存在は初めて知りました。
ビルの中だけどなんだか神社感がばっちり。
寒椿と梅のほころぶ中を階段を上ります。
なんともいえない梅の香りが。いい香り。
神社というか祠ですね。しかし朱の鳥居と言うのはいいものですね。
江戸時代、園内は広く梅が林をなし、将軍御目留の梅、御腰掛の松などといわれる奇株もあったとのこと。維新前、日本橋本町御影堂の所有となると、屋敷守が手作りした土産の「梅漬」を売り、筵を用意してやって来る客たちに貸席を設けると各自日当たりのよい梅下に腰を下ろし、白梅をめでながら瓢酒を斟み、仲間同志歓談。市内から日帰りで清遊するのに適当な距離でした。
明治になると、船越男爵、二条公爵など持主が変り、俗に新町の梅屋敷ともいわれました。三〇年代になると東側に浄水場が作られ、敷地の北端部の小丘は新設水道に沈み、入口正面に琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の三字碑が建てられました。小説家田山花袋は青年時代、現在ワシントンホテルから都庁にかけてあった旧館林藩角筈抱屋敷の屋敷守をしていた義兄を頻繁に訪れ、浄水場が建設される過程や、近隣の様子を具に見聞し、作品『時は過ぎ行く』に書いています。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、「や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか」など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
明治四四年、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、梅樹は芝公園に移され、同時に「銀世界」の石碑も移りました。ガスタンク建設反対の住民運動が起こりましたが、翌四五年五月、敷地一万三千二一六坪に容積約三〇〇万立方尺のガスタンクが竣工し、ガスは東京の外堀以西一帯の需要者に供給されることになりました。
戦後、昭和四〇年に浄水場は廃止され、高層ビルの立ち並ぶ都心と大変貌を遂げ、やがてガスタンクも取り壊され、その跡に五二階の超高層ビル「新宿パークタワー」が建設されたのはご存知の通りです。
と「公益社団法人 新宿法人会」さんのサイトに書いてあります。
琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の三字碑は見当たりませんでした。見つけられたらよかったのに。
shouttanの日記に「銀世界」石碑の現在が乗っていました。
今は芝公園に引越ししはったんですね。
銀世界稲荷の由来
この辺り一体は江戸時代某大名の下屋敷で庭は銀世界と呼ばれる梅林で梅の名所でした。
春初め辺り一面に銀世界のように咲く梅は実に見事で銀世界の名称がそのまま稲荷神社につけられました。
平成六年四月
このビルには色々な会社が入っていると思いますので是非とも商売の神様お稲荷さんにお越しいただかないといけませんね。石造りに玉砂利。掃除も行き届いて綺麗です。
思いがけない所で良いものを見せていただきました。そして私は白いタイルの空中庭園を通り抜けて新宿中央公園へと向かったのでした。