京都市内では一番太いかもしれない縦の道。堀川通り。
昼も夜もひっきりなしに車が走っています。
堀川通りには銀杏の木が植えられていて秋になると黄金色に光って綺麗です。落ち葉は大変そうですが。銀杏は太古からある木で、防炎効果があるので古い町には沢山植えられていますね。大阪の御堂筋も銀杏の並木道があります。銀杏は美味しいから大好き♡
戦時中だか戦後に強制疎開させられてみっちりと町家が建っていたところを更地にして太い道路にしました。
目撃者の話では「そうや~、強制疎開させられてなあ、そこんところの家の柱に縄つけて引きずり倒してはったわ~」と言う事です。ほんまに?確かに「欲しがりません。勝つまでは」の時代だから人力だったのかも~。そしてその家々は残った家のかまどでご飯支度に使われたんでしょう。
wikipedia、教えて!
北は鴨川堤の加茂街道から南は東海道本線交差部北で一筋東を走っていた油小路通に合流する。
幹線道路としては一続きながら、南は油小路通と別の名前をつける。 堀川紫明以北は4車線の幹線道路、堀川紫明から堀川今出川までは中央分離帯の幅も広いゆったりとした6車線の幹線道路。
堀川今出川から堀川御池は後述の通り堀川が明り区間で、東西堀川通が並び残っている。
御池から暗渠になった堀川の上も道路となり、堀川五条でやや東に振れて醒ヶ井通を合わせ、西本願寺北で鍵の手に東に折れ、堀川七条で暗渠のまま堀川は西に逸れ、堀川通は東海道本線北で一筋東の通りである油小路通に合流する。
合流点以南の通りの名称は「油小路通」である。
昔は東堀川通、川の堀川、西堀川通は同程度の幅であった。
西堀川通は第二次世界大戦時に防火帯として沿道の家屋が強制疎開させられたため、現在ある広い通りになった。 京都電気鉄道が開通させた後の京都市電堀川線(通称北野線、N電)は、1961年(昭和36年)に廃止になるまで狭い東堀川通を堀川中立売から四条堀川まで走っていた。
出来たのは戦前でしたね。しかしあの巾であの長さを強制疎開させるって戦後の民主主義では不可能です。いったいみなさんちゃんと補償は受けていいところに引っ越せたのでしょうか・・・。そんなわけありませんな。
京都の元禄9年古地図を引っ張り出してきてみました。
太さが変わってないと思われるのは中立売通りだけ。(しかし中立売も昔にしてはちょっと太いからなんらかの整理があったのかも)
今出川も丸太町も強制疎開させられていますね。この画像には出ていませんが御池通りも派手に家を潰してはったらしいです。
古地図を見ていても今の地図をそんなに変わってなくて面白いなあ。町名も変わってないし、古い町のよいところですね。
私の住んでいる所でも千年以上人々が生まれて死んで泣いて笑って生きていたんでしょうね。
さてさて、そんな太い道、堀川通りを下がっていった西本願寺、通称お西さんのちょっと北側にあったお地蔵様です。
卍の台座に祠。そして祠を守る更に祠?
やっぱりこのおじぞうさんをお守りする為にこちらの町内の方々は寄付しあってがんばってはるんですね。
お地蔵さんは汚れないようにガラスに守られて。しまった・・・私が写りこんでしまってます。
アップで見てみましょう。通称十六菊です。うちにも似た柄はありますが、残念。うちのではありません。ここらへんはお西さんのお膝元と言うこともあって仏具屋さんは充実してはるので町内の方からの寄付という事も充分考えられます。
道路沿いには銀杏の木。中央分離帯はケヤキでしょうか。銀杏ではありませんね。
今日のお地蔵様は「五条堀川下がったお西さんよりは北にあるお地蔵様」でした。金襴が掛かってて良かったです。