お暑うございます。これ、最近の合言葉ですね。
御機嫌よう。西陣金襴織屋の岡本織物です。
京都市内、日曜日の大雨のお陰で、あの恐ろしい猛暑が少しはましになっている感じがします(猛暑と言うだけでなくて普通に暑いですけどね)。
日本全国、世界各地の皆様、いかがお過ごしでしょうか?南半球の友達からは「寒いよ~」というお知らせが来たりしてて、この暑さを分けてあげたい、と心より思います。
今日は暑い日に写真を撮ってきました。今出川通りをずっと東に。京都大学を越えて更に東に。というあたり、「北白川久保田町」におわします子安観世音さん。今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口にいはります。
この地は昔から「白川」と呼ばれた村の入り口に当たりました。東山を越えると近江へ、鴨川の荒神口を通って洛中へという位置にあります。出町から百万遍のあたりを通って「浄土寺」へと向かう道でもありました。
この堂々たるお地蔵さんは鎌倉時代の石仏。1788年の「捨遺都名所図会」巻二にも希代の大きな像として描かれている「阿弥陀像」です。しかし長い歳月の間に風化が進んでいます。古来より「子安観世音」として民衆からの信仰が篤く、今でも白川女(洛中の近郊農家である「白川村」の女性が振り売りに出る事)はここに花を添えて商いに出るという話です。
上の画像は捨遺都名所図会」巻二の子安観世音。今とお顔が違いますか?今では想像も出来ないくらいの野原ですね。こんな伝説もあります。聚楽第完成後に豊臣秀吉は石仏を気に入って(大綱秀吉は大きなもの、目立つものが好きだった)、聚楽第の庭に運び入れさせたと言います。しかし、「白川に戻せ」と毎夜鳴動しました。そのため元の地に戻されたという。以後、太閤地蔵とも呼ばれたそうです。
数年前、走行中のトラックがぶつかるという事故に遭ったそうです。丸太を使って胴体と頭部をつなげているという弱い構造だったため、頭が転げ落ちてしまいました。額を中心に表面が損傷し、今もその部分だけは白くなっていはります。
「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という詠み人知らずの歌があります。かつてここに小川が流れていたのでしょう。
背中から見ると大きな一枚岩なので頭が別の岩だとは気がつけません。
町内地図。ものすごく年季が入っていますね。
おかめ納豆がお供えしてあります。関西の人は納豆を食べないと言う噂がありますが、京都の者は納豆、大好きですよ。お地蔵さんも大好きなのかしら。
子安観世音の背中側には可愛らしいお地蔵さん達がいはります。
金襴を探そうと思ってお地蔵さんウォッチしているのですが、中々金襴には出会えません。でもこんな風に気が付かずに通り過ぎてしまっていたような事に気がつけて、金襴探しから枝分かれした出会いに喜んでいます。