京都西陣の金襴織屋、岡本織物株式会社織物、先日上野のお山に行き、国立博物館を堪能して来ました。
最近の博物館は撮影OKなんですね。隔世の感を感じながらええもん拝見してきました。
筆者は金襴を探して京都市内&出張先をうろうろしているうちに神社仏閣、お地蔵さんの面白さにはまっています。
上野の山から近いところに八万四千体のお地蔵さんがいはるというじゃないですか!これは行かねば!!
台東区上野桜木2-6-4にある浄名院さんにやってまいりました。言問通りに面しております。
八万四千体地蔵尊安置の石碑。貝原懸軒先生筆。と書いてあります。貝原益軒(かいばら えきけん 江戸時代の本草学者、儒学者)という有名な方ならいはるのですが・・・。
本堂の中の天蓋&幢幡の美しい事。白くて明るい本堂ですね。
金襴地も発見です。十六菊紋の戸帳がきらめいています。
お座布団も金襴。丸龍。
毘沙門天王
こちらの浄名院さんは江戸城の鬼門である寛永寺の三十六坊の一つとしてとして寛文6年に創建されたお寺。へちま供養もさかんで「へちま寺」と呼ばれる事も多いそうです。
この掲示板には
昔は高重院、其後寛文6年(1667)圭海大僧都開基東叡山36坊の浄円院と称し、寺領200石を賜う。五代将軍綱吉公の母宝樹院菩提所となり、寛海和尚は善養院に転住さる。寛文12年当山第1世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。之に対し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。
当時日本仏法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院も改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて、比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕府の本宗棹尾の偉観を呈す。大明院宮、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊像を画き江戸府内寺院に賜り毎月24日の縁日はそれより始まる。
当山38世妙運和尚自他の人を合わせ、八万四千の石地蔵尊を建立し、上は仏祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の十数体奉納あり。徳川、小松、一条、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人之に続き建立今日に到る。
境内には明治初年神仏分離に際し、江戸六地蔵六番(永代寺、富丘八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以来当寺に江戸六地蔵第六番として再造された。(境内掲示より)
と書いてあります。
六道能化地蔵菩薩の化身 南無閻魔地蔵尊
伏見稲荷からも勧進されているようです。
このお地蔵さんを集め始めた妙運和尚。25歳で地蔵信仰を得て以来一千体の石造地蔵菩薩像建立の願いをしました。明治9年にここの浄名院に入り、明治12年に一千体の願が満ちると、更に八万四千体建立の大誓願をしました。明治18年には地蔵山総本尊を建立。今でも各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けているそうです。
このように境内には所狭しとお地蔵さん。
上野画像の青銅製の大きな地蔵菩薩坐像。こちらの言われは江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新で廃寺になった事、日露戦争の戦没者を弔うために明治39年新たに建立されたものだそうです。
明治18年に建立された総本尊堂。明治18年!かなり手入れされていますね。綺麗。
本尊のお地蔵さんの上にさされている傘が可愛い。蓮の葉みたい。両側の脇侍はどなた・・・?ぷっくり感。
毘沙門天かなあ。服装はそれらしいのですがまげがないですね。
こちらは何かの枝を持ってはります。
さて、地蔵巡りに出発します。まずは第一番。
第二番。
第三番。
第四番
この第四番は妙運大和尚さんの塔だそうです。
第五番は・・明治35年1月23日 青森県 凍死軍人の霊魂を静めるためのお地蔵さん。あの有名な!八甲田雪中行軍遭難事件やないですか。なんて悲しい。
弘法大師=空海もいはりました。スーパーカリスマです。
境内の中のお地蔵さんには番号がつけられています。
第六番。こちらで六地蔵巡りは終了。あとは物思いにふけながら散策でもしましょう。
ちなみにこちらのお地蔵さん達の「八万四千」という数字は「沢山many」の意味で、83999の次の数じゃないというのがポイントです。八万四千の煩悩、八万四千の法門、などという様に仏教ではよう使われる数字です。
今日の織屋の賄いはかしわとキャベツ、お葱さんを炒めたんのでした。