本能寺~西陣織屋が金襴をさがして

寺町通り御池を下がった所にある本能寺。

本能寺、と言われて西陣織屋の私の脳裏に浮かぶもの、それは「本能寺の変」。西陣織屋になる前からそれくらいは浮かんだはず。
織田信長が家臣の明智光秀に騙しうちにあった場所です。「敵は本能寺にあり!!」

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

1719年、徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って九度目の朝鮮使節475名が来日した。このうち大阪どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12によどから鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した通信使の正使らは本堂に泊まり、塔頭の蓮承院は上官、吉祥院は通訳官、本行員は五山僧などが利用した。その間、貫主以下の一山の僧侶達は一時他寺等へ立ち退いた事が当時の記録である「両山歴譜」に記されている。この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。この時通信使の随員であった製述官・シンシュハンが著した見聞記「海遊録」では本能寺の事を「壮麗な事は比すべきものが無い」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人達は本寺の周辺の寺院や民家にも分宿した。

と書いてありました。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

本能寺
法華宗本門流の大本山で、応永22年、日隆上人によって創建された、
当初は本応寺と称していたが、永享5年、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は天承10年、織田信長が明智光秀によって襲撃され、自刃したところとして世に名高いが、その折、30余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く消失し、現在の本堂は昭和3年に再建されたものである。
寺宝には花園天皇宸翰((しんかん)は、天皇自筆の文書のこと)、伝藤原行成筆の書簡などの貴重な逸品を蔵し、境内には織田信長及びその側近達の供養塔、ならびに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

本尊は十界曼荼羅

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

日蓮聖人が「法華経」を手に辻説法中。
立正安国論・・・日蓮が北条時頼に提出した文書で宗教戦争的な色が濃い国家&国民が安泰となる為の論文です。

宗教は、難しいです。私ごときがこんな短いブログで書き表せるものではありません。

しかし結局は浄土宗からも疎まれて、北条時頼からも「政治批判」と見なされてしまい伊豆に流罪になってしまいます。いや・・・伊豆に流罪って中々よさげな気がするのですが・・・。その頃は温泉もそんなに見つかってなかったかな?サーフィンやダイビングも無いですしねえ。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

寺町通り商店街から入ります。烏丸通からも入れるのですがこちらの方が門が大きく入りやすいです。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

本堂。中に入ってご本尊を拝むことが出来ます。

おお!私のライフワーク。立派な金襴を拝むことが出来ました。
写真、写真撮らなくちゃ・・・・「撮影禁止」・・・。

残念なり。撮影禁止という立て札が目に入っては撮る事は出来ません。
ここの金襴は普段使い物が使われていたと思いますが、なかなか立派な金襴がかかっていました。
西陣の金襴屋としては嬉しい限りです。

どうぞ、皆様も寺町や河原町をぶらっと歩いたときには休憩がてら、本能寺を拝みにいらしてください。
本堂も立派やし、金襴をお目にかけることが出来ると思います。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

本能寺の定紋は鶴丸

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

この二つの定紋も鶴ですよね。左は雀っぽくもあるけれど・・・。鶴?

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

3種類の鶴を見つけたのですが、どれが確実なんでしょうか。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

織田信長のお墓もありました。お墓の写真は撮りません。

本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して
本能寺~金襴を探して

ビルの谷間に立派な銀杏もありました。

表通りからは想像できない空間です。

京都は建物と建物の間を通る路地を抜けたら意外な所に出る事があります。ぶらぶら散歩、いかがですか?

関連記事