京都西陣金襴屋の岡本織物のブログを読んでくださる方々どうもありがとうございます。
「御霊神社」で検索するとgoogleのトップに出てくる我が社の氏神さん「上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)」。
正式名称は「御靈神社」霊が難しい方です。
何故上御霊さんと呼ばれるのでしょうか?
それは中京区、寺町通りを丸太町下がる所に鎮座するもう一つの「御靈神社」が下の御霊さん、で下御霊神社と呼ばれているからです。
お祀りしている神様は
- 井上大皇后(光仁天皇の皇后)
- 他戸親王(光仁天皇の皇子)
- 崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
- 藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
- 橘大夫(橘逸勢)
- 文大夫(文屋宮田麿)
- 火雷神(菅原道真)
- 吉備大臣(吉備真備)
(上の2柱は後から追加されました)
の8人。神様なので8柱とお呼びしましょう。
これらの人々は吉備真備(何故お祀りされたのでしょうか?割と平穏な晩年そうなのに)を除いて、全員が政争により憤懣やるかたないような憤死をした人々です。その怨霊を鎮めるために祀る為、御霊神社は創建されました。
至徳元年には正一位の神階を授けられたので、格の高い神社です。
御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる御霊祭。明治までは旧暦の8月18日(新暦だとたぶん9月22日)に行われていたそうですが、現在は新暦の5月18日に変わっています。
5月17日の宵山へ。
行く前に鉾町の見学。
町内で鉾を保存して御祭りの時には出すと言う風習が京都にはあります。こちらは武者小路千家さんで有名な武者小路町。
蓬莱鉾。いつもは蔵の奥に保存してある鉾を取り出して、このように町家の「店」部分に綺麗に飾り付けします。
定紋が今宮さんと同じ三階松。
蓬莱鉾(松鉾)という名前。だから松の定紋。蓬莱といえば中国の神仙思想の中で仙人が住むという場所。仙境。仙人といえば松の霞を吸って生きていると言われるスーパーマンで不滅の真理。それから松の意匠なのでしょう。
鉾はぴかぴか。
西陣織と思われる緞子に金糸で八重菊の立派な刺繍。
こちらは牡丹の刺繍です。
この西陣織地とは違いますが、岡本織物の西陣織でも経糸と横糸の色が違う緞子地があるのですが、角度によって色が変って綺麗。
奥の屏風の定紋も刺繍。刺繍はふっくらして美しいですねえ。さすが、ええもんがあります。
御供え物も興味深いです。
上御霊神社と御霊祭の由来について
上御霊神社は延歴13年(749年)平安京遷都にあたり桓武天皇の御願により崇道天皇の神霊を現今の社地にまつられ京都の守護神とせられたのがその始めであります。
その後、仁明・清和両朝にいたりて井上大皇后、他戸親王藤原大夫人、橘逸勢、文太夫の神霊を合祀せられ、貞観5年5月神泉苑に6箇所の神座を設け悪疫退散の御霊会を併祭されるにいたり、俗に八所御霊または八所御霊大明神と梢へ奉り、国家守護、皇后御産土神。都民援護の崇社としてここに長久に鎮座せられるのであります。
往古より朝廷の最も恐れ崇めまつった神社であり、また疫病除けの霊社ととして至上有名であります。。
上に述べました貞観5年の御霊会は即ち御霊祭の起源であり、それより6年後に祇園御霊会(祇園祭)、さらに132年後に紫野(今宮祭)が行われたのでありまして祭礼としては最も古く京都随一のいわれがあります。
祭礼当日渡御される御神輿、御牛車は御陽成天皇、御水尾天皇、御西院天皇より寄進せられ、氏子町中より供奉される角指鉾もまた歴朝の寄進多く、いづれも当時をしのぶ由緒深き貴重なる文化財であります。
よって千年の昔より受け継ぎ伝え来た、この氏子の祭り、御霊祭は人の世のもろもろの悪疫や災厄を祓い清める祈りであり、この祭りに奉仕した先人の至誠を感得し、この数多くの人々の心の美しさと清さとは私達によって永遠に維持せねばならないと思います。
なお、我が町の蓬莱鉾(松鉾)は文明2年(1470年)今から約500年前に御土御門天皇よりご寄付されたものであります。
これが、500年前のものなんですか?ものすごく状態良いです。とても500年前のものとは思えませんでした。前面の十六菊が皇室とのつながりを感じさせます。
町を通る鉾をこのように飾ってあったらよく観察できます。
綺麗。意匠が細かい。色々な所に「天皇」との関係(菊の紋様などに)が垣間見えて町の誇りが感じられます。
普段は普通の御宅なんですが、この日のために家の表戸を取り外して飾る場所にして提灯なども飾りつけ。大変でしょうが、「これぞ御祭り!」って感じます。この日の鯖寿司は美味しいでしょう。(この時期の京都の御祭りは鯖寿司がかかせません。薄い昆布がたまりません。)
これは明日のための鉾の台車。これ・・・普段は保存してあるなんて大変やなあ。
道を進みまして、今出川通り室町東入るの「今出川町 龍鉾」。
明日の行列の為に鉾がスタンバイ。龍の鉾が青空にぴかぴかの西陣織で「丸龍散雲」の金襴地もかかっています。
雲に立枠の西陣織生地にこちらもきらりと光る十六菊の刺繍。皇室との関係を物語っています。
こちらも普通の民家が今日の日の為に場所を提供してはります。
後花園天皇ご寄進。1431年です。こちらも古い!582年前です。この龍は今は車が激しく行きかう今出川通りの変遷をどのように感じながら見守ってきたんでしょうか。
龍、格好良い!!
こちらの西陣織 金襴地:このテトラポットのような地紋は「毘沙門亀甲」
毘沙門亀甲に丸龍と丸鶏菊散しの金襴地。菊桐の立枠紋様の緞子地が回りに寄り添います。
こちらの西陣織 金襴地は散雲に鏡裏丸龍紋。
引き棒の前面にも「龍」の文字。格好良い!
やってきました。御霊祭の宵山。夜店が沢山出ています。
どうしても布地に目が行ってしまいます。
なんだか懐かしい感じの射的場。子供達が本気を出しています。
社事務所の方に控えていました。明日の為に準備中の傘や、もろもろの行列用の道具達。
ここの氏子さんたちには西陣織関係者達が沢山いはります。ええ、西陣織やなあ。ええ織物や。刺繍も綺麗だし、京都の場合はほんまに地産でお祭りが出来ます。漆塗り職人、飾り金具職人も沢山いはります。。すごいなあ。
獅子舞の頭も明日の為に控え中。
御神輿は明日の為に舞台の上で英気を養っているようです。薄暗くなってきた中の提灯が高揚感を揚げます。
18日の御霊祭当日は御神輿たちはここから階段を通って降ります。そうして一帯を練り歩き、また夜に威勢のよい担ぎ手達がこの舞台の上に上げるのです。その場面のかっこよいこと!
御神輿たちはこの正門を通りぬけて神様を乗せて自分の氏子達の家々を見回りに連れて行くのです。
牛車
江戸時代初期(慶長年間)御陽成天皇の上皇当時のご寄進と伝えられています。
御陽成天皇は深く学問を好まれ、しばしば臣下に伊勢物語や源氏物語を講義されたと言う事です。
牛車の現存例は大変少なく新たに作られたものは別にして、この牛車以外には毎年葵祭りにしようされ、現在京都御所に保管されている2両以外にはみあたらないようです。
平成14年には中世交通史をご研究の皇太子殿下も調査の為来社されました。
この牛車は毎年5月18日の当御霊神社の祭礼である御霊祭渡御之儀に猿田日小神社をまつり、御神輿の先導をつとめます。
この牛車も古いものなんですね。
こちらが牛車が動いている動画です。
おもちゃの魚釣り。
御霊神社で有名な「御霊太鼓」大人も子供もちゃんと練習を重ねてこの日に披露します。
子供用神輿。
御霊太鼓の演奏の横で子供達がくじ引きに群がっていました。
かっこいい太鼓やってるよ~。でも、子供は花より団子。おもちゃの方に興味津々ですね。
次の日18日は御霊祭渡御之儀。御神輿が練り歩きます。昼に仕事を抜けて見学予定です。夜の舞台上がりにはいけないので残念・・・。
2016年5月18日追記しました。
2014年5月追記
小山郷が能舞台に還るところです。まずは、今出川口が入り、小山郷、末広会が入らはります。格好良いのでリンク先はフェイスブックの岡本織物ページですがどうぞご覧ください。