西陣織は、かつて日本を代表する巨大産業でした。しかし現在、その全盛期は終わったと言われています。では、なぜ西陣の全盛期は終わったのでしょうか。
京都の昔の映像を探していて、とても面白い資料を見つけました。
立命館大学アート・リサーチセンターが公開している「京都ニュース」アーカイブです。
「京都ニュース」は、1956年(昭和31年)から1994年頃まで、京都市内の映画館で本編上映前に流されていたニュース映画です。
昔の映画館では上映前にニュースを流していたんですね。
京都の季節の行事、祭り、経済、交通、生活、産業などが短い映像に記録されており、現在は全244本・921トピックがデジタルアーカイブとして公開されています。
その中に、西陣織に関する映像もいくつか残されています。
今の西陣を知る人が見ると、驚くほど活気のある時代です。
織機の音、人の多さ、街の勢い。映像には、産業としての西陣がそのまま映っています。
私も西陣の昔を知る人から、「大宮通りには映画館などがたくさんあり、毎日縁日のような賑わいだった」とよく聞き、いまだに信じられません。
昭和30年代の西陣は、巨大な産業だった
昭和30年代の西陣は、いま私たちが日々見ている西陣とは、風景はまるで違っていました。
家の一階に機場があり、朝から晩まで織機の音が響く。
家族だけでなく、親戚や近所の職人、分業先の仲間たちが街の中で仕事をつなぎ、一枚の帯や裂地が生まれていく。
子どもたちは学校から帰ってくると、親のお使いで仕事を手伝う。
そんな産地の厚みが、まだ町全体にあった時代です。
西陣は単に「古い織物の産地」ではありませんでした。
京都を代表する産業の一つとして、人も、設備も、技術も、街の中に高密度で集まっていた場所でした。
昭和31年「西陣パレード」|織物の街の祝祭
この映像には、西陣の街をあげて行われたパレードの様子が残されています。
約50台の宣伝車を連ねて約300名の内から選んだミス・ミセス西陣たちが京都市内をパレードしたそうです。
西陣織会館が今の堀川通今出川南入ル竪門前町に移転したのは昭和51年の事。
この映像が昭和31年(1956年)とのことですので、ここに出てくる西陣織会館は今の京都市考古資料館(今出川大宮東入ル元伊佐町)である場所だと思います。
建物も少なく、とても今の今出川通とは思えません。
いま見ると、これは単なる催しではなく、当時の西陣がどれほど大きな産業の自負を持っていたかを示す場面に見えます。
街ぐるみで織物を掲げ、見せ、祝うことができる。
そのこと自体が、西陣という産地の勢いだったのだと思います。
西陣織は、工場の中だけで完結する仕事ではありません。
街の中で息をしていた仕事だったのだと、こうした映像を見るとよくわかります。
昭和32年 三越「西陣織物展」|産地の意気込みが見える映像

この映像で特に目を引くのは、広幅(丸帯用だと思います)の手機ジャカード織機を会場に持ち込んで実演していることです。
東京の百貨店に、巨大な西陣のジャカード織機そのもの持ち込んで、組み立てて見せる。
しかも、ただ陳列するのではなく、実際に職人が動かして織る作業を見せています。
そこには「西陣の織物を売る」というだけではなく、「西陣という産地の技術そのものを見せる」という強い意志が感じられます。
高松宮両殿下が来場されている様子も映っており、当時の西陣織が日本を代表する産業・工芸として紹介されていたことがわかります。
今でも展示会は大切な場ですが、この頃の西陣には「産地そのものを東京へ持っていく」くらいの熱量があったのだと思います。
昭和34年「織物のまち西陣」|帯の7割が手機だった時代
この映像の中では、帯の7割が手機で織られていた時代の西陣が紹介されています。
今の感覚で聞くと、かなり大きな数字です。
それだけ多くの織手がいて、それだけ手機が現役で動いていて、それだけ産地に厚みがあったということです。
動画を見るだけでも人口密度の高さを感じます。
西陣の織物は、もともと人の手を深く必要とする仕事です。
経糸を整え、紋様を設計し、染め、箔を作り、織る。どの工程にも人がいて、しかもそれぞれが専門職として独立していました。
この映像が面白いのは、「昔の西陣はすごかった」という懐古だけで終わらないところです。
現在の西陣が、どれほど濃い仕事の集積の上に立っているかを実感させてくれます。
1962年「西陣青年の家ひらく」|若い織手たちの居場所
この映像も、とても興味深いです。
船岡山の麓にあった「西陣青年の家」は、無料で誰でも利用できる施設だったそうです。
地方から出てきた若い織手たちの交流施設。
そう聞くだけでも、当時の西陣がどれほど多くの人を抱える産地だったかが見えてきます。
西陣は家内制手工業の街でしたが、同時に、地方から働きに来る人々を受け入れる産地でもありました。
そうした人たちの居場所が必要になるほど、西陣には仕事があり、人が集まり、産地としての重力があったのだと思います。
料理教室なども開催されていたそうです。
映像を見ながら、これは単なる福利施設ではなく、西陣という巨大な織物産地を支える社会基盤の一つだったのではないか、と想像してしまいます。
西陣織産地の強さは「分業」にあった
西陣織の強さは、一社完結の大量生産ではなく、分業にあります。
図案、紋紙、糸染、整経、引箔、製織、仕上げ。
それぞれの工程に専門職がいて、織元はそれらをつないで一枚の布にしていきます。
この構造は手間がかかります。
けれど、その手間があるからこそ、複雑で精緻な紋織物が成立します。
一人一人がその工程のプロフェッショナルである。
昭和の西陣が強かったのは、織機の台数が多かったからだけではありません。
分業のネットワークが街全体に張り巡らされ、それぞれの工程が高い精度で動いていたからです。
西陣織の工程については、こちらのページでも詳しく整理しています。
「ガチャマン景気」という言葉が残った理由
西陣には、よく知られた言葉があります。
ガチャンと織れば万の金
いわゆる「ガチャマン景気」です。
もちろん、実際にはガチャンと一回織れば簡単に儲かるような単純な仕事ではありません。
そこには織手の技術も、分業先の仕事も、長年の蓄積も必要です。
それでもこの言葉が残ったのは、それだけ当時の帯の需要が大きく、西陣という産地が巨大な経済圏を形成していたからだと思います。
京都ニュースアーカイブの中でも沢山の織物産地「西陣」についての動画がアーカイブされています。
西陣の織機の音は、単なる作業音ではありませんでした。
あれは、街の経済の音だったのだと思います。
では、その全盛期はなぜ終わったのか
ここで伝えたいのは、当社のような金襴を織る織元にはこの西陣の「帯好景気」はあまりなかったことです。
残念ながら、神社仏閣用の金襴は創業以来、特に盛り上がりもなく、淡々と織物を織り続けてきました。
しかし、そんな金襴を織る当社でも「西陣の全盛期は終わった」と実感しています。
ここが一番大事なところだと思います。
西陣の全盛期が終わった理由は、一つではありません。
着物を着る生活が日常から離れたこと。
帯の需要そのものが縮小したこと。
生活様式が変わったこと。
流通も変わり、価格に対する感覚も変わりました。
そして、西陣の強みだった分業構造は、需要が十分にある時には強いのですが、市場が縮小すると各工程が同時に細っていくという難しさも抱えています。
機械だけ残っても、動かす人がいなければ布は織れません。
一つの工程だけが残っても、他の工程が消えてしまえば産地としては機能しません。
西陣は単なる織物産業ではなく、街そのものが一つの生産装置のように機能していた産地でした。
つまり西陣の縮小は、単に「売れなくなった」ではなく、産地が少しずつほどけていくことでもありました。
その意味で、京都ニュースに残る西陣の映像は、栄光の記録であると同時に、現在の西陣を考える手がかりでもあります。
手がかりでもありますが、私たちはまだその解決策を見つけることが出来ていません。
今の現状は、イタリアのルネッサンスのように、巨大なパトロンが現れることを祈るだけです。
それでも今、西陣で織る意味
けれど、西陣は終わった産地ではありません。
実際に毎日毎日織物がおりあがってきています。
2023年に169億円だと2025年8月27日に開催された西陣機業調査報告会で報告がされています。(西陣織工業組合が三年ごとに行っている調査。調査期間は24年7〜9月、調査対象組合員数は253社、回答率は92.1%)
6回連続で減少、初めて200億を切った、と散々な現状にも見えますが、これは、織る総量が減っているのだから、しょうがない。織屋自体が減っているのです。
実際、当社の売り上げはコロナの時など一時期大変下がりましたが、近年は上向きになってきています。
帯の需要が減っている今、帯の織屋が減るのはしょうがない。
その中で、織物産地として、どうやって分業制を含め残していくのか考え続けないといけません。
規模は小さくなっても、今も職人たちがいて、織屋では頑張って織物が織られています。
希望は、近年、帯や法衣だけでなく、インテリア、アート、ファッション、海外市場へと、新しい用途へも販路を広げようと頑張っている織屋が増えていることです。
私たち自身も、西陣織金襴を寺社仏閣のためだけでなく、現代の空間や暮らしの中へどう届けられるかを考えながら仕事をしています。
西陣織について詳しく知りたい方は、こちらもご覧ください。
映像資料としての京都ニュースアーカイブ
京都ニュースアーカイブの価値は、昔の映像が見られることだけではありません。
そこに映っているのは、当時の京都の空気であり、産業の密度であり、街の記憶です。
西陣の映像もまた、今では失われつつある「産地の厚み」を伝えてくれます。
昭和の西陣を知る手がかりとして、そして今の西陣を考えるための資料として、ぜひ一度ご覧ください。
京都の昔の映像を探していて、とても面白い資料を見つけました。
立命館大学アート・リサーチセンターが公開している「京都ニュース」アーカイブです。
「京都ニュース」は、1956年(昭和31年)から1994年頃まで、京都市内の映画館で本編上映前に流されていたニュース映画です。
昔の映画館では上映前にニュースを流していたんですね。
京都の季節の行事、祭り、経済、交通、生活、産業などが短い映像に記録されており、現在は全244本・921トピックがデジタルアーカイブとして公開されています。
その中に、西陣織に関する映像もいくつか残されています。
今の西陣を知る人が見ると、驚くほど活気のある時代です。
織機の音、人の多さ、街の勢い。映像には、産業としての西陣がそのまま映っています。
私も西陣の昔を知る人から、「大宮通りには映画館などがたくさんあり、毎日縁日のような賑わいだった」とよく聞き、いまだに信じられません。
昭和30年代の西陣は、巨大な産業だった
昭和30年代の西陣は、いま私たちが日々見ている西陣とは、風景はまるで違っていました。
家の一階に機場があり、朝から晩まで織機の音が響く。
家族だけでなく、親戚や近所の職人、分業先の仲間たちが街の中で仕事をつなぎ、一枚の帯や裂地が生まれていく。
子どもたちは学校から帰ってくると、親のお使いで仕事を手伝う。
そんな産地の厚みが、まだ町全体にあった時代です。
西陣は単に「古い織物の産地」ではありませんでした。
京都を代表する産業の一つとして、人も、設備も、技術も、街の中に高密度で集まっていた場所でした。
昭和31年「西陣パレード」|織物の街の祝祭
この映像には、西陣の街をあげて行われたパレードの様子が残されています。
約50台の宣伝車を連ねて約300名の内から選んだミス・ミセス西陣たちが京都市内をパレードしたそうです。
西陣織会館が今の堀川通今出川南入ル竪門前町に移転したのは昭和51年の事。
この映像が昭和31年とのことですので、ここに出てくる西陣織会館は今の京都市考古資料館(今出川大宮東入ル元伊佐町)である場所だと思います。
建物も少なく、とても今の今出川通とは思えません。
いま見ると、これは単なる催しではなく、当時の西陣がどれほど大きな産業の自負を持っていたかを示す場面に見えます。
街ぐるみで織物を掲げ、見せ、祝うことができる。
そのこと自体が、西陣という産地の勢いだったのだと思います。
西陣織は、工場の中だけで完結する仕事ではありません。
街の中で息をしていた仕事だったのだと、こうした映像を見るとよくわかります。
昭和32年 三越「西陣織物展」|産地の意気込みが見える映像

この映像で特に目を引くのは、広幅(丸帯用だと思います)の手機ジャカード織機を会場に持ち込んで実演していることです。
東京の百貨店で、西陣の織機そのものを見せる。
しかも、ただ陳列するのではなく、実際に職人が動かして見せる。
そこには「西陣の織物を売る」というだけではなく、「西陣という産地の技術そのものを見せる」という強い意志が感じられます。
高松宮両殿下が来場されている様子も映っており、当時の西陣織が日本を代表する産業・工芸として紹介されていたことがわかります。
今でも展示会は大切な場ですが、この頃の西陣には「産地そのものを東京へ持っていく」くらいの熱量があったのだと思います。
昭和34年「織物のまち西陣」|帯の7割が手機だった時代
この映像の中では、帯の7割が手機で織られていた時代の西陣が紹介されています。
今の感覚で聞くと、かなり大きな数字です。
それだけ多くの織手がいて、それだけ手機が現役で動いていて、それだけ産地に厚みがあったということです。
動画を見るだけでも人口密度の高さを感じます。
西陣の織物は、もともと人の手を深く必要とする仕事です。
経糸を整え、紋様を設計し、染め、箔を作り、織る。どの工程にも人がいて、しかもそれぞれが専門職として独立していました。
この映像が面白いのは、「昔の西陣はすごかった」という懐古だけで終わらないところです。
現在の西陣が、どれほど濃い仕事の集積の上に立っているかを実感させてくれます。
1932年「西陣青年の家ひらく」|若い織手たちの居場所
この映像も、とても興味深いです。
船岡山の麓にあった「西陣青年の家」は、無料で誰でも利用できる施設だったそうです。
地方から出てきた若い織手たちの交流施設。
そう聞くだけでも、当時の西陣がどれほど多くの人を抱える産地だったかが見えてきます。
西陣は家内制手工業の街でしたが、同時に、地方から働きに来る人々を受け入れる産地でもありました。
そうした人たちの居場所が必要になるほど、西陣には仕事があり、人が集まり、産地としての重力があったのだと思います。
料理教室なども開催されていたそうです。
映像を見ながら、これは単なる福利施設ではなく、西陣という巨大な織物産地を支える社会基盤の一つだったのではないか、と想像してしまいます。
西陣の強さは「分業」にあった
西陣織の強さは、一社完結の大量生産ではなく、分業にあります。
図案、紋紙、糸染、整経、引箔、製織、仕上げ。
それぞれの工程に専門職がいて、織元はそれらをつないで一枚の布にしていきます。
この構造は手間がかかります。
けれど、その手間があるからこそ、複雑で精緻な紋織物が成立します。
一人一人がその工程のプロフェッショナルである。
昭和の西陣が強かったのは、織機の台数が多かったからだけではありません。
分業のネットワークが街全体に張り巡らされ、それぞれの工程が高い精度で動いていたからです。
西陣織の工程については、こちらのページでも詳しく整理しています。
「ガチャマン景気」という言葉が残った理由
西陣には、よく知られた言葉があります。
ガチャンと織れば万の金
いわゆる「ガチャマン景気」です。
もちろん、実際にはガチャンと一回織れば簡単に儲かるような単純な仕事ではありません。
そこには織手の技術も、分業先の仕事も、長年の蓄積も必要です。
それでもこの言葉が残ったのは、それだけ当時の帯の需要が大きく、西陣という産地が巨大な経済圏を形成していたからだと思います。
京都ニュースアーカイブの中でも沢山の織物産地「西陣」についての動画がアーカイブされています。
西陣の織機の音は、単なる作業音ではありませんでした。
あれは、街の経済の音だったのだと思います。
では、その全盛期はなぜ終わったのか
ここで伝えたいのは、当社のような金襴を織る織元にはこの西陣の「帯好景気」はあまりなかったことです。
残念ながら、神社仏閣用の金襴は創業以来、特に盛り上がりもなく、淡々と織物を織り続けてきました。
しかし、そんな金襴を織る当社でも「西陣の全盛期は終わった」と実感しています。
ここが一番大事なところだと思います。
西陣の全盛期が終わった理由は、一つではありません。
着物を着る生活が日常から離れたこと。
帯の需要そのものが縮小したこと。
生活様式が変わったこと。
流通も変わり、価格に対する感覚も変わりました。
そして、西陣の強みだった分業構造は、需要が十分にある時には強いのですが、市場が縮小すると各工程が同時に細っていくという難しさも抱えています。
機械だけ残っても、動かす人がいなければ布は織れません。
一つの工程だけが残っても、他の工程が消えてしまえば産地としては機能しません。
つまり西陣の縮小は、単に「売れなくなった」ではなく、産地が少しずつほどけていくことでもありました。
その意味で、京都ニュースに残る西陣の映像は、栄光の記録であると同時に、現在の西陣を考える手がかりでもあります。
手がかりでもありますが、私たちはまだその解決策を見つけることが出来ていません。
今の現状は、イタリアのルネッサンスのように、巨大なパトロンが現れることを祈るだけです。
それでも今、西陣で織る意味
けれど、西陣は終わった産地ではありません。
実際に毎日毎日織物がおりあがってきています。
2023年に169億円だと2025年8月27日に開催された西陣機業調査報告会で報告がされています。(西陣織工業組合が三年ごとに行っている調査。調査期間は24年7〜9月、調査対象組合員数は253社、回答率は92.1%)
6回連続で減少、初めて200億を切った、と散々な現状にも見えますが、これは、織る総量が減っているのだから、しょうがない。織屋自体が減っているのです。
実際、当社の売り上げはコロナの時など一時期大変下がりましたが、近年は上向きになってきています。
帯の需要が減っている今、帯の織屋が減るのはしょうがない。
その中で、織物産地として、どうやって分業制を含め残していくのか考え続けないといけません。
規模は小さくなっても、今も職人たちがいて、織屋では頑張って織物が織られています。
希望は、近年、帯や法衣だけでなく、インテリア、アート、ファッション、海外市場へと、新しい用途へも販路を広げようと頑張っている織屋が増えていることです。
私たち自身も、西陣織金襴を寺社仏閣のためだけでなく、現代の空間や暮らしの中へどう届けられるかを考えながら仕事をしています。
西陣織について詳しく知りたい方は、こちらもご覧ください。
映像資料としての京都ニュースアーカイブ
京都ニュースアーカイブの価値は、昔の映像が見られることだけではありません。
そこに映っているのは、当時の京都の空気であり、産業の密度であり、街の記憶です。
西陣の映像もまた、今では失われつつある「産地の厚み」を伝えてくれます。
昭和の西陣を知る手がかりとして、そして今の西陣を考えるための資料として、ぜひ一度ご覧ください。



