こんにちは。京都の西陣織屋、岡本織物です。毎日織物に埋もれて暮らしています。金襴屋は金箔糸を使うので靴下やいろいろなところにキラキラが付いてることが多いです。金箔屋さんは金箔がついてるらしいという噂です
いったい金襴はどのようなところで使われているのか?という疑問を抱いて、金襴を探してさまよっています。京都に沢山あるお地蔵さんにはおべべやミニ戸帳として使われています。そしてもちろんお寺には沢山あるはず(しかし金襴はお寺の宝物の為、法要など重要な時にしか使われてない事が多い・・・)普段着の金襴で結構。色々と探してみましょう。
というテーマでブログを書いていることが多いです。
神社仏閣がテーマ→https://okamotoorimono.com/category/templeshrine/
道々のお地蔵さんがテーマ→https://okamotoorimono.com/category/jizo/
最近では金襴がかかっていなくても神社仏閣&お地蔵さんが大変面白いのでブログで紹介させていただいています。
正春寺のお隣。聖徳山諦聴寺について今日は書かせていただきます。
お読みいただいてくれてはる方、ありがとうございます。
正門の外側には新宿の高層ビル。パークタワー。
お隣は浄土真宗でしたがこちらの諦聴寺は真宗大谷派です。大谷派といえば先日書いた「花灯路」で大谷派の多い土地の写真を載せました。
諦聴寺は、聖徳山と号します。萬冶元年(1658)に四谷に創建して、その後駿河国清水への移転。
享保年間にこの代々木へ移転したと伝えられているそうです。木像聖徳太子立像は渋谷区有形文化財に指定されています。
OMG!四谷→静岡の清水→代々木!すごい引越しですね。静岡の清水と言うことは徳川と何か関係があるのかしら。
木像聖徳太子立像について
この像は、頭髪を中央で左右に振り分け、顔のつくりも明らかにしない立ちすがたで神像を思わせますが、当初は両耳辺で髪を美豆良に結い、いま見るように柄香炉を手にしていたと考えられます。風化による木のやつれが全身に見られ、両手先や香炉のほか台座も近世のものに替わっており、保存状態が良好とはいえませんが、聖徳太子の十六歳の姿を表したという孝養像にあたります。
木彫りによる太子孝養像は、鎌倉時代以降各地で盛んに造立され、なかには坐像や倚像もありますが、本像のような直立像が一般的です。そのすがたは、太子が父用命天皇の病気平癒を祈るものとされますが、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫像や絵像が多く作られます。本像はヒノキの一木造で、簡素な彫法から南北朝時代から室町時代にかかる頃に造られたとみられます。
諦聴寺が四谷から現在地に移転するのは嘉永3年(1850)ですが、太子像はそれ以前から伝えられていたといいます。本像は、区内の真宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならず信仰史の上からも貴重な作です。(渋谷区教育委員会掲示より)
そんな木像聖徳太子立像が安置されているであろうご本堂はもちろん鍵がされていて木戸なので中も全く見えません・・・。残念です。
さ、中も覗けないし帰りましょうか。
昔は見通しが良かっただろうに今では首都高とビルが見えるのみやなあ。でもやはりお寺の中はなんとなく静かな感じがしますよ。
お寺は本堂以外はビルになっていました。ビルでも和風にしちゃうのがすごい。
鬼瓦が悪者が来ないように睨んでいます。
鬼瓦を見ると「手塚治虫 火の鳥(鳳凰編)」を思い出します。
我王と茜丸の運命に翻弄される話。
お母ちゃんになった私は思います。「どっちも悪くないで。どっちもなあ、運が悪かっただけや・・・。」
我王と茜丸は鬼瓦作り対決をするんです。どうぞどうぞ、ご一読あれ。