有馬の温泉寺。
京都の西陣織屋、岡本織物が京都を離れて有馬で「金襴探し」をしてきました。
今のところ北区有馬町むら玄横 愛宕神社、で金襴を発見しました。
今日のブログのテーマである「温泉寺」さんは行基さんに関係があると昨日のブログでも書きましたのでそれをもう少し掘り込んでみようと思います。
行基上人が神亀元年(724)に建立した黄檗宗の仏教寺院で本尊は薬師如来。行く度かの火事にあっているようなのでこのご本尊の薬師如来は行基さんとは関係ないようですし、初期とは宗派も変わっています。元は真言宗。正式名は有馬山温泉禅寺。
奈良時代の724年に行基により開かれ、鎌倉時代の仁西が中興し、安土桃山時代に火災で全山焼失したが豊臣秀吉の正妻である北政所によって再建。しかし、火事に抵抗できない時代の事、再び火事で消失し、1582年に現在もある薬師堂が建立。1590年に豊臣秀吉が有馬大茶会(秀吉は茶会が好きですね。茶会というのは「パーティー」とか晩餐会という意味なのでしょう)を開催したとされる阿弥陀堂等は、腹が立つことに明治時代の廃仏毀釈で薬師堂以外は壊されてしまったようです。宗教者の特権は困るけれども、折角ある歴史ある建物を打ち壊す必要ありますか!?
大きな薬師如来様。立派ですね。横に日光菩薩・月光菩薩を脇侍とし十二神将像が背後にありそうです。
薬壷をもってはります~。暗いお堂の中の金の光りようの美しい事。
小柄ですが金襴発見。十六菊紋のように見えます。皇室とは関係なさそうなんですが・・・。
唐花と雲の蜀甲文様が戸帳として使われていました。
この石灯籠かと思ったら「五輪塔」は由緒正しい塔なのです。
この五輪塔は鎌倉時代の作で江戸時代、1701年の書物「摂陽群談」によれば「平相国清盛塔」と「慈信坊尊恵塔」と書かれて共に平清盛が有馬温泉に滞在したときに建立されたものだとされています。平家物語の中に慈信坊尊恵という(書の中では慈心房と書かれる)が宝塚の清澄時に住んでいたときに何度も閻魔大王に招かれてあの世に行ったと書かれています。その閻魔の元で平清盛主催の「千増供養」が話題になりその時に閻魔大王は「清盛は平安中期の元三大大師の「良源」の生まれ変わりだと尊恵に伝えました。
清盛は喜びました。閻魔は尊恵に「法華経を五重の箱に入れて閻魔王府の東門に当たる聖地である「有馬の温泉山」に収める事などを伝えたという物語が伝わっているそうです。
実際は平安末期に土砂崩れで有馬温泉にはこれなくなり清盛が有馬に来たという歴史的な事実はないようですが、伝説的な人物だけに清盛没後100年頃に清盛供養の為に温泉寺に五輪の塔が建てられ、尊恵の有馬の伝説と結びついて江戸時代の話に盛り込まれたのでしょう。
「池之坊 満月城 遭難者慰霊塔」という石碑もありました。池坊といえば、華道で有名で六角堂の住職。遭難とかと縁がなさそうです。そしてここの近くに「満月城」というホテルもありました。何がなんだかわからないので調べてみました。
なるほど。その「池之坊満月城」というホテルは由緒あるホテル。しかし、大きくて古い建物にありがちな増築に増築を重ねてややこしい迷路のようになってしまっていたそうです。1968年に火事を起こしてしまい、まあ、それ以上は書くのは止めましょう。火災遭難の慰霊塔だったようです。南無阿弥陀仏。可哀想に・・・・。
昔使われていた屋根瓦たちが役目を終えて一休み中。「恵瓦」と書かれていますね。
こちらもすぐそばにあったお地蔵さん。金襴地がかかっています。すごく日焼けしていて地の色がなんなのか・・・。
アルミの箔は日光褪色で銀に戻り、地の色は茶なのか?朱なのか?白茶なのか?何年物くらいなのか知りたいですね。弊社の奥にある個人的お地蔵さんの戸帳はもう10年以上になるけれどもここまで褪色はしていないなあ。本金の金襴地ではありますが。
メインのお地蔵さん一体に脇地蔵が2体。
端のほうが褪色著しいですね。ヒダがあるほうが風雨から防御率が高いのかしら。
以下は私の仕事のご紹介。西陣の金襴織屋、「金襴の輝きで生活を彩りたい」という思いで色々作っております。どうぞご覧ください。
テーブルランナーを飾り台などに掛けていただき生活に輝き☆を
素敵な香りと本金のきらめきを胸元や袂、ポケットに潜ませてと言う思いで作りました。匂い袋でございます。