奈良に元興寺(がんごうじ)というお寺があります。
京都からですと、近鉄奈良で降りて、猿沢の池を目指します。猿沢の池の東側をぶらぶらと降りていくと元興寺さんがあります。
蘇我馬子(飛鳥時代の政治家で聖徳太子の物語には必ず登場)が飛鳥に建立した日本最古と言われる本格的な仏教寺院、法興寺が前身となっています。南都七大寺の一つとしても数えられています。
奈良時代には近くの東大寺や興福寺と並ぶ大寺院でしたが、没落したりで近代では明治、大正、昭和18年までは住職もいないお寺になってしまい、ぼろぼろの「お化け寺」と呼ばれるくらい荒れ果ててしまっていたようです。明治維新がもたらした近代化はそういうところには手が届かなかったんでしょうね。廃仏毀釈もありましたし。京都でも今では「京都に唯一残った公家」として有名な冷泉家さんがいはりますが、戦後間もない頃は「お化け屋敷」として子供達は怖れていたと親戚から聞いております。心と財布に余裕が出て初めて文化的な事象を保護できるのですね。
昔と比べて小さくなってしまった元興寺ですが、こちらの国宝となっている元興寺極楽堂(極楽坊本堂・曼荼羅堂)。阿弥陀堂建築の特色である「正面は東向き」という大事なポイントがあります。こちらは内部の見学が可能で(立派な金襴も掛かっていましたよ。撮影禁止です)、東大寺の大仏殿のようにぐるりと回って見学する事ができます。
内部にはネパールやスリランカからの寄贈の品々があったり、ダライ・ラマ14世の写真が飾ってあったり、日本らしさ全開でした。仲良き事は良い事です。
中は写真を撮れなかったので私がとても気になった「浮図田(ふとでん)」を。石塔・石仏を田んぼのように並べたので浮図田というらしいです。
こちらには2500基程の石塔、石仏が置いてあります。これらはお寺や周りの地域から鎌倉時代末期から江戸時代中期に集まってきたもので、人々が極楽浄土への往生を願って徳を積むために造った供養の仏塔。お地蔵さんとして近隣で8月23日、24日に地蔵会を行い、祖先の供養、家内安全を願って万灯供養が行われるとの事です。
お茶席がありお茶を頂いたのですが、「地蔵盆にはお子様にお茶を振舞うんですよ」と教えていただけました。行きたい。楽しそう。近所の子供達にお茶を振舞うなんて素敵過ぎます。下の画像が(クリックしたら大きくなります)元興寺さんで出していただいた吉野本葛を使ったお干菓子です。「元興寺」とあります。いいですね。オリジナルのお干菓子。
石仏が沢山いはります。奉納した方々それぞれの思いが詰まっているんですね。
端に行くと石仏や石塔も古びてまいります。渋くて良いですね。
元興寺には「元興寺文化財研究所民俗文化財保存会」という元興寺などに保存してあったり出土したりする歴史的遺産を保存して調べるという機関があります。元興寺境内「法輪館」(総合収蔵庫) でその成果を展示したりしてはるのですが春季企画展として「小仏塔の世界 -元興寺から極楽へ-」という展示をしてはりました。
非常に面白かったんです。この元興寺では鎌倉から江戸時代まで極楽浄土を願って小さな仏塔を納める信仰がはやったと前述しましたが、その仏塔が浮図田だけではなくて、本堂や境内の屋根裏やいろいろな所から発見されているのです。浮図田は石仏ですが、その発見された小さな仏塔は木で作ったものがほとんどでした。薄かったり、ちょっと立体だったり。薄いものなんて、卒塔婆です。
「卒塔婆(そとうば)」は略して「塔婆(とうば)」ともいい、本来は「仏塔」のことを意味します。言葉の起源は、インドのサンスクリッド語の「ストゥーパ」です。しかし、一般的には“追善供養のためにお墓の後ろに立てる塔の形をした縦長の木片”のことを言います。
卒塔婆は仏塔を簡略化したもので、その形は五輪塔と同じく仏教の宇宙観である五大を表しています。下から順に、「地(四角)」、「水(円)」、「火(三角)」、「風(半円)」、「空(宝珠形)」です。
ただし、浄土真宗のように卒塔婆を建てる習慣がない宗派もあります。-鎌倉石材店様より
卒塔婆って五重塔だったんだ!京都の織屋、岡本織物、今まで五重塔も卒塔婆も見て参りましたが二つが同じ目的だったなんて知りませんでした・・・。
納骨五輪塔というものもあり、立体の五重塔に小さな穴を開け、遺骨を納めたものです。板状にして屋根裏などの柱に打ち付けられたりもしていたそうです。
板の五輪塔は戒名を書いた板状のもので(ほぼ卒塔婆です)、「多くの人が多くの供養を行う事でより大きな功徳につながる」と言う「多数作善」という考え方に準じたものだそう。
災害、病気、等で思うように生きる事の難しい昔ですから(今も大差ないか・・・)色々と心が軽くなるよう神頼み、仏頼み「信じれば叶う」を信じるしかなかったのでしょう。私も色々信じよう。
さて、下の画像は「かえる石」。確かにかえるっぽい。昔は河内の川べりにあった殺生石(温泉などの毒ガスが出ていたりして鳥や虫が近づくと死んでしまう場所にある石の事ですが、河内ってそんなに危険な場所ありましたっけ?少々調べたらこのかえる石が口をあけて鳥や虫を飲み込んだという怪奇話があるようでそれで殺生をする石で殺生石なのかもしれません)でした。
豊臣太閤秀吉が気に入り、大阪城に運び込み大阪城落城時には、蛙石の下に淀君の亡骸を埋めたとも言われているそう。近代では乾櫓(いぬいやぐら)の対岸にあったそうです。その頃は堀に身を投げて死んだ人もこの石の下に帰るといわれたそうです。江戸時代の奇石を集めた「雲根志」にも掲載済み。元興寺に運ばれたのが昭和31年。戦争のごたごたで行方不明にもなっていたりと奇遇な石生です。なんで石が行方不明になるんやろ。そんな器用に持ち運び可能なものでもないのに・・・。
この石から堀に身を投げる人が出たり色々人の生き死にを見てきたというかえる石ですが、今では元興寺の供養が効いて、極楽カエルに成就出来たそうで、「福かえる・無事かえる」の名石として7月7日(七夕)に供養されるそうな。
西陣の西陣織屋で金襴を日々織っています岡本織物、身近に金襴製品を、という思いで「西陣織 正絹金襴印鑑ケース」を作りました。どうぞご覧下さい。
テーブルランナーを飾り台などに掛けていただき生活に輝き☆を
素敵な香りと本金のきらめきを胸元や袂、ポケットに潜ませてと言う思いで作りました。匂い袋でございます。
今日の織屋の賄いは、カニクリームコロッケ、もずく酢、もやし、人参、三つ葉のサラダ、その他諸々でございました。