音羽山 清水寺というむっちゃ有名なお寺があります。
「清水の舞台から飛び降りる」ということわざもあります。
清水寺の古文書調査をひもとけば、清水の舞台から実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件もあって、生存率は85.4%。
明治5年(1872年)に明治政府が清水の舞台からの飛び降り禁止令を出して舞台の周りに柵を張るなど対策を施したことで飛び降りも減ったそうです。
今までも何回も来た事はあるのですが、前回来た時も舞台は修復中だったりしてなかなかちゃんと見たことがありませんでした。
今回は「清水寺」という「清水」の名前が付いた伝説の湧き水「音羽の瀧」を今回のブログのテーマにさせていただきます。
清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となったのがこの瀧です。こんこんと流れ出る清水は古来「黄金水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。
3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願するため、連日、行列ができるほどの人気の場所ですが、元は瀧行の場。開基行叡居士(ぎょうえいこじ)、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)の伝統を守り、現在も水垢離が行われています。
この音羽の瀧の水を飲むために汲むのですが、その水を汲む為に長い行列を待たねばなりません。
待ちました。
みなさん、とても楽しそうに水を汲んではります。
だって、すごい長い柄のひしゃく!そんなにちょろちょろとした瀧を長くしなくても!これはやっぱり観光名所としてのアトラクション的な長さですね。
トレビの泉のように下には小銭が光っています。
この崖から清水が昔と変わらず湧き出ているようです。上に見える建物は「奥の院」
洛陽三十三所観音霊場第十一番札所。
清水寺の起こりとなった「音羽の瀧」の真上に建ち、開基行叡居士(ぎょうえいこじ)と、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)が修行した旧草庵跡と伝えられています。
現在の建物は、本堂と同時期の寛永10年(1633)に再建されました。
寄棟造りの檜皮葺屋根は美しい反曲線を描き、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残しています。また、本堂と同様の舞台造りで、ここから望む本堂の舞台と京都市街の景観は、絶好の撮影スポット。
「奥の千手堂」ともいい、秘仏の御本尊三面千手観音、脇侍地蔵菩薩、毘沙門天と、二十八部衆、風神、雷神をお祀りしているほか、古くは真言宗兼学を伝統していたことから、弘法大師像も奉祀しています。
↑は清水の舞台「本堂」です。
西国三十三所観音霊場第十六番札所
洛陽三十三所観音霊場第十二番札所
寛永10年(1633)に再建された、正面36メートル強、側面約30メートル、棟高18メートルの大堂です。
堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分かれ、通常、外陣とさらに外側にめぐらされた廊下を進んで拝観します。
建物は、優美な曲線を見せる寄棟造り、檜皮葺の屋根や軒下の蔀戸(しとみど)など、平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影を今に伝えています。
こちらに参拝する前に「鉄の錫杖(てつしゃくじょう)と高下駄」があったり楽しめます。とても重たかったです。
本堂の建つ崖の上にあるのが「清水の舞台」
昔から思い切って決心することを「清水の舞台から飛んだつもりで・・・」といいますが、その語源となったのが、この場所。
錦雲渓(きんうんけい)の急な崖に、最長約12メートルの巨大な欅の柱を並べ、「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築です。
本堂から張り出した「舞台」はちょうど4階建てのビルの高さにあたり、京都市街の眺望が見事。面積は約190平方メートル、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」です。
この舞台はもともと、御本尊の観音さまに芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納されてきました。現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われます。
等とぐるりと見渡して、さ、列は進んだかしら?
ちょっと進みました。視点が変わったでしょ?待ち時間がちょっといらいらするのよね・・・と思っていたら並ぶべくロープの張り巡らされている所に絵物語が描いてありました。これはありがたい。待つのも楽しくなりますね。
「三筋のくどくは汲む人の願いの心と信心の深さによる」—-清水寺 音羽の瀧の言い伝え
むかしむかし、奈良に延鎮法師というお坊さんがいました。ある夜、延鎮法師は、夢の中で観音様のお告げを受けました。清い水を探しに北を目指して行きなさい。
そこで、延鎮法師は、清い水をさがす旅に出ました。そして京都の音羽山にたどり着き・・・「あったぞ!」「よく来たな。わしは行叡(ぎょうえい)と申す。
実は行叡さんは人間に姿を変えた観音様でした。まもなく、この世を去ることになり、行叡居士は言いました。「この木で観音様をほりなさい。」
お告げの通り、延鎮法師は、観音様をほって、滝之上にあった行叡さんの小屋にまつりました。これが清水寺の始まりといわれています。
それいらい、ここ清水寺の音羽の滝はありがたいお水として、人々から大切にされています。「友達百人できますように。」「長生きができますように。」「頭が良くなりますように。などなど」
「どのお水を飲めばいいの?」「清らなかなお水で心身を清めて、一生けん命いお願いをすることが大切なのでどの水でもいいのよ。」「じゃ、私は真ん中にしよっと!」「お水をいただくのは無料なの」「そう、お金がいらないの。お滝の右にある銀色のお杓をつかってね。有料だけどマイカップも売ってるよ。」
音羽の滝にはお不動様がまつられています。お不動様に手を合わせて、お願い事をした後、お水を頂きましょう。
この話とはちょっと違うのですが、このような伝説も残っているそうです。
大和国の興福寺(奈良の興福寺です)の僧であった延鎮法師は夢のお告げで東山にある今は清水寺となった地である音羽山にたどり着きました。
そこに金色の湧き水を見つけた延鎮法師がその源をたどっていきました。するとそこにはこの音羽山にて滝行を行って千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)が修行してはりました。
200歳にもなるという年齢の行叡居士は延鎮法師に「私はあなたを長いこと待っていました。私はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して去って行きました。
行叡居士は観音の化身であったと悟った延鎮法師は、行叡居士が残していった霊木に千手観音像を刻んで、行叡の旧庵に安置しました。これが清水寺の始まりだそうです。
その後坂上田村麻呂と延鎮法師は出会い、延鎮法師に殺生の罪を説かれた坂上田村麻呂は観音に帰依しました。
観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したといいます。
その後征夷大将軍になって東国征伐のために東国に行った坂上田村麻呂は若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利出来たのです。
その後都に帰った田村麻呂は延鎮法師と協力をして音羽山にて観音を祀っていた本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造ってともに祀ったと伝えられているようです。
坂上田村麻呂もそこに出てくるんですね。
こちらが柄杓にセットする「マイカップ」
さすが、21世紀。柄杓は全て紫外線滅菌装置に安置されていますよ。
紫外線滅菌装置から1柄取り出して水を汲みます。
上の画像の手前にある変わった柄杓がマイカップ専用の柄杓です。
何事も欲張ってはいけないとの戒めの教えから柄杓で汲んで飲むときには三本ある滝の一本だけを選んで一口だけを飲むほうが良いらしいです。
欲張って二口飲むとご利益が半分、三口飲むとご利益が三分の一になってしまうらしいです。
また三本の滝水とも飲むと全ての願い事も叶わなくなってしうと言われています。
良かった!欲張らずにあっさりと飲みました。
金襴ありました!朱赤地の八重菊唐草です。
金襴の中に御不動様。不動明王や行叡居士をお祀りしてあるようです。行叡居士はどちらにいはるのかわからなかったです。
お水をいただいて参拝も済んであ、帰り道。
清水の舞台の下から清水の舞台を臨む。こんなところによく建てはったもんやなあ。
下の竹垣がやたらと攻撃的で・・・いったい誰を威嚇してるのか?
清水寺へは八坂神社のある円山公園辺りからぶらぶらと行きました。
可愛いお店なども沢山出来ているし石塀小路のような京都らしい路地もあったりなかなか楽しかったですよ。御来京の際は清水寺参りという京都観光の王道を経験するのも良いです。