こんにちは。
普段西陣から出る事などほとんど無い、西陣織で口を糊している岡本織物です。
今回は珍しく西陣どころか京都から出て東京に来ております。歩くの大好き!だけど普段は3000歩も歩けばよい方です。今回はめっちゃ歩いています!
新宿方面よりどんどんあるいて山手線に乗り、原宿から青山通り側に近づいて「妙円寺」にやってまいりました。
日蓮宗のお寺で山号は蓮光山。
原宿のおしゃれさんたちが集う辺りから歩いてすぐです。お墓もあるこんな広く開けた空が原宿で見られるなんて・・・。まあ、原宿はそんなに高い建物が多くないので青空率は高いですが。
頑張ると 疲れちゃうけど 夢中になれると 疲れないんだよね。
お寺ってこういう「当たり前だけど疲れているときには心に突き刺さりそうな言葉」が掲げられている事が多いです。この言葉は何か便利帳のような感じでお寺に配布されているのでしょうか。それともほんまに和尚さんが考えて書いてはるんでしょうか。もちろん後者を望みます。
こちらが原宿発祥の地・・・。原宿発祥之地
「原宿発祥の地」の碑を建てた由来を 妙円寺の住職から聞いたところ, 次のような説明をいただいた。
昭和40年の住居表示変更によって 原宿の地名が消滅し それを惜しむ声があり, どこかに残したいということで 「発祥の地」の碑を建てた。
特に 妙円寺で 原宿の名前が発祥したということではなく, 元「原宿」のどこか ということで たまたまこの寺が選ばれた。
碑の題字は 渋谷区長に書いてもらったが, 建てたのは あくまでも町内の有志。
江戸時代から「原宿村」「穏田村」の2つの村があって、明治に合併して「千駄ケ谷村」になりその後「原宿」「穏田」「竹下町」と変更。更に簡略化で「神宮前」に統一。明治神宮の前にあるから 「神宮前」という安直な名前になってしまい、実は今は「原宿」という地名はないそうな。
知りませんでした。
立像合掌の浄業菩薩。この菩薩像は太平洋戦争中の1945年5月にアメリカ軍による東京大空襲によって付近一帯が焼け野原となった際にも焼け残ったものだそうです。えっ。そんな凄惨な場面を見てきはったようには見えないけれど、所々についている斑点がその名残なのかしら。まあ。大変な目にあってはるのね・・・。
この道路の向い側に、かって隠原小学校がありました。
この学校は妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、穏田・原宿両村の連合公立小学校として明治14年に当時の原宿70番地に開校したもので、当初の児童数は24名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同21年にこの場所に校舎を新築し移転してきました。
その後、校地が再び狭くなり、同33年に原宿170番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
この間、大正11年には分教所(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和20年5月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同21年3月、65年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
渋谷区教育委員会
と、書いてありましたよ。こう、色々と書いていると私の親もうまれていなかった「太平洋戦争」はいかに日本各地、日本人の心に強く刻み込まれているのか、と強く思います。
こちらのお寺は毎年夏の土用の丑の日にほうろくという素焼きの土器を使ったお灸、「ほうろく灸」で知られるそうです。普通のお灸ならした事あるのですがほうろくって結構大きいような気がします。ダイナミックなお灸になりそう・・・。
これで夏を乗り切ろう、健康祈る「ほうろく灸」←こちらに記事がありました。見たことあります!頭に乗せてはります。頭にお灸をする事で頭部の熱を冷まし、元気を回復させる効き目があるそうです。熱は熱で制すですかね。
のみの跡が残るこんな感じの扁額好きです。右から読みましょう「蓮光山」山号です。本堂にかかっていました。
本堂のガラスからちらちらと中を拝見。
荘厳ですね。こんな太鼓とか叩いて良いのか不思議になります。という事はこちらのお寺も雅楽のような法要がとりおこなわれるのでしょう。
キラキラです。金襴は・・ちょっとだけ見られます。奥の方に紺地の亀甲のような・・・。金襴という事はたぶん、西陣で織られた西陣織です。桐生の可能性もあるかな。
奥に高僧らしき方が真綿布団を掛けていただいています。どなたなんでしょうか。
しかし、こんな静かな所から、5分歩かないうちに賑やかなおしゃれ街につくとは。うちの子供たちも一度は「行ってみたい」と思うんやろな~。
ちなみにここの裏にはワタリウム美術館がありますよ。
こんな感じにお地蔵さんの事や西陣織の事、金襴の事などほぼ毎日ブログ更新中です。良かったら御覧下さい。