岡本織物のブログを読んでくださる方々どうもありがとうございます。
寒くなってきましたね。
会社の賄い係を兼ねて昼ごはんを毎日作っているのですが、社員達に一体何を食べてもらったいいのか・・・悩める日々です。熱い汁物に生姜を入れる率が高くなってきています。
今日はかしわを骨まで炊いたんと大根を甘辛く煮付けたものです。かしわの手羽先は昨日炊いておいて、出汁は昨日の賄いのスープになりました。
さてさて、今日の本題。
京都に新京極という通りがあります。
新京極通りはお土産やさんの多い修学旅行生に有名な通りです。
蛸薬師通りという名前の道もあるんです。
新京極は南北の道、蛸薬師は東西の道です。
蛸薬師の北側、新京極通りに面して蛸薬師堂はあります。
御門には丸に三つ葉の葵。
でも本家徳川の葵とはちょっと違います。
徳川の葵は丸につくところが、ちょろっと曲がってるんです。葉脈も違うような・・・。
葵というのは京都の上賀茂神社で5月に行われる「葵祭り」にあるように「賀茂信仰」の葵にまつわる物だと思われます。
確か上賀茂神社も丸に三つ葉葵の紋だったはず・・・。
私には詳しいことはわかりませんが、昔の武家にとっては家紋と言うのはとても大事な物だったはず。
分家などをするたびにちょっとずつ変わっていくこともあったと思います。
イギリスとかの貴族の紋なんてすごいですよね。
一人一人を識別できるほどの紋があるはずです。
ここはお寺ですが、なんらかで賀茂信仰の上賀茂神社と関係があるのか徳川と関係があるのか。
私には解りませんが、「水戸黄門」を見て育った世代としては「丸に三つ葉葵」というのは心ときめく物があります。
京都には道の名前を覚える為のわらべ歌があります。
以下東西を走る「横の通り」の唄
まる、たけ、えびすに、おし、おいけ~、あね、さん、ろっかく、たこ、にしき~、し、あや、ぶっ、たか、まつ、まん、ごじょう、せった、ちゃらちゃら、うおのたな、ろくじょう、さんてつ、とおりすぎ~、しちじょう こえれば、はち、くじょう、じゅうじょう、とうじで とどめさす
これを覚えれば大体のところに、お使いにいけます。
とても便利です。
解説しますと、
まる たけ えびす に おし おいけ
丸太町通り、竹屋町通り、夷川通り、押小路通り、御池通り
あね さん ろっかく たこ にしき
姉小路通り、三条通り、六角通り、蛸薬師通り、錦通り
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう
四条通り、綾小路通り、仏光寺通り、高辻通り、松原通り、万寿寺通り、五条通り
せった ちゃらちゃら うおのたな
雪駄屋町通り 魚の棚通り(現、楊梅通り)
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
六条通り、三哲通り
しちじょう こえれば はち くじょう
七条通り、八条通り、九条通り
じゅうじょう とうじで とどめさす
十条通り
この唄は丸太町から五条まではこのとおりに歩いていけます。
ただ、五条より下はこれだけでは頼りないんじゃないかしら。
ずいぶんと道が省略されていると思います。
重宝する唄です。
通称「蛸薬師」と呼ばれるお寺があります。
正式には「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」といいます。
元々は二条の室町にありました。
でも太閤さんに移転させられてしまいます。
その頃のお寺さんというのは、インテリで政局にも興味を持ってはります。
ややこしいことを言い出さはるまえにお寺さんばかりを一箇所に集めてしまわはったんです。
そしてここの新京極の東は鴨川。
鴨川の川原といえば昔はもっと広くて、たまに氾濫して、しかも罪人の処刑なども行われたり、亡くなった人をばんばん置いていったり、今とは違ってかなり混沌としていたのじゃないでしょうか。
そういう混沌としたものたちを都の中に入れないように京極にお寺が集められたのではないでしょうか。
もちろん、大きなお寺を都の東に配する事で、鴨川とお寺達という大きな壁も出来ます。
それで、京が極む。で京極。京が尽きると言う意味ですね。
そして反対は「西京極」。今では陸上競技場やプールなどスポーツ施設の充実している地帯が昔は西の京極だったのです。
東の京極から西の京極までがその頃の洛中なんです。
ここ、蛸薬師。
昔々、室町通に裕福な人がいて出家して「林秀」という名にしていました。
比叡山の「薬師如来様」を深く進攻して、毎月の月参りを欠かさず行っておったそうです。
年をとったので薬師如来様の仏前で「私も都市を撮ってしまったので今までしてきました月参りもできなくなります。どうか薬師如来様のお姿像を一体ください」とお願いしました。
その夜、枕元に薬師如来様が現れ、「昔、伝教大師(最澄)が私の姿を石に彫って比叡山に埋めました。それを探して持ち帰りなさい」というお告げをしてくれて、次の日に底を掘ってみますと立派な石の御尊像を得ることが出来たと言うことです。
その像をご本尊にお堂を建立し「永福寺」と名付けたそうです。
さあて、金襴はありますかな?
ご本尊の周りに「戸帳」と「戸帳」があるようです。
ちょっと種類は違うけれどダブル戸帳。
上の戸帳は濃紺地に箔を引いて竜です。
下の戸帳は朱地に唐花。
竜、立派!やはり小柄よりも大柄の方が迫力あります。
金襴があって良かったです。
そしてやっぱり「蛸薬師」というからには、蛸がいないとね!
蛸をなでなで。
蛸びんづるさんです。
蛸薬師如来の由来
昔々、1200年代に「善光」というお坊さんがこの永福寺にいはりました。
あるとき、母親が病気になってしまったので寺に呼んで看病していましたが一向によくなりません。
「子供の頃から好きだった蛸を食べたら良くなるかも」というまるで子供のような気持ちを善光さんに言いました。
今はともかく昔の僧侶は精進です。
肉食はしません。
なので「蛸など買いにいけない・・・」と困っておりましたが、母のたっての願い、ついに蛸を買って帰りました。
町の人々は「お坊さんが生魚をかわはったんやで~」と寺の門前までついていき、「その箱の中を見せんかい」と責めたのです。
善光さんはその責めに「薬師如来様」に一心に「この蛸は私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうかこの難を助けてください。」と祈り、箱を開けると蛸はたちまち八足を八軸の経巻に変化して霊光を四方に照らしました。
町の人々も皆合唱し、南無薬師如来と唱えると不思議なことにこの経巻が再び蛸に戻り門前にあった池に入って行き瑠璃の光を放って善光の母を照らすと病気はたちまち回復しました。
それ以来「蛸薬師堂の蛸薬師如来様」と称されるようになり病気平癒等のご利益あらたかなお寺と呼ばれるようになったようです。
本堂の屋根部分には鳳凰のレリーフ。
本堂屋根の瓦に「永」「福」「寺」。
このブログを書いていて、衝撃を受けたこと。
地名と言うのは謂れがあるものですが、蛸が「再び蛸に戻り門前にあった池に入って行き瑠璃の光を放って」という件での「池」「御池通りの御池」だそうです。
今ではまったく想像もつきませんが、あのような所に池があったとは・・・。
これも昔のことですから、真偽は定かでは無さそうですが、昔の風景を思い浮かべてちょっとドキドキします。
私の住んでいた所には一体どんな人が住んではったんやろ。
2代前までは解るのですが、大正以前はわかりません。
大き目の家だった所を何軒かで分けたというのは家々の形からなんとなくわかるんですけど。
更にさかのぼって1200年頃はどんな町だったんだろうな。
私の住んでる辺りや会社の辺りは確実に人がいたのは確かなんで、面白いです。
それともう一つ、海水に生きる蛸が淡水に入っていったこと。 でした。