西陣金襴を織っている岡本織物株式会社は京都市上京区に社屋があります。
社屋のある地名は「革堂町」。
ここにも昔、革堂さんと言われた行願寺(ぎょうがんじ)というお寺があったそうです。
西国三十三所第十九番札所で1004年に行円が創建したお寺。もともと一条北辺堂というお堂があったそうな。もともと猟師だった行円さんが、鹿を殺したことでふ、と殺生に哀れみを感じて仏門に入ったそうな。その時に殺生してしまった鹿の革をいつも身につけていたことで「革のお堂」という事で革堂と呼ばれたそうです。
豊臣秀吉に寺町荒神さんに移動させられた後、宝永の大火の後に寺町通竹屋町上ルの行願寺門前町に移転しました。
革堂町も今では大きなお寺があったなんて信じられません。
そのすぐ傍の大峰厨子町も修験者のための道場があったなんて信じられません。
うすうすは存じていましたが、そのお話は以下の広報誌により興味津々となりました。
上京区に社屋があったり住んでいると上京区の広報誌などが配布されるのですが、歴史豊かな上京区、歴史ものは色々と充実しています。
年に二回配布される「上京 史跡と文化」という冊子は地味ですがとても面白い。
今回は弊社の東側の西洞院通りにある「大峰寺跡」について。こちらはとても小さな史跡ですが、まさかこのようなドラマがあった場所だったとは・・・。
「上京 史跡と文化」は検索した限り、ネット上には出ていないようなので勿体無いので「大峰寺跡」の回だけですが、載せさせて頂きます。
上京 史跡と文化
平安京の大寺院の跡か
武者小路通小川東入ルの一角を占める武者小路千家官休庵の門前から南へ延びる西洞院通。通りを下ると一条通までの中ほど西側に大峰寺跡(おおみねでらあと)の駒札が立ち、民家に挟まれた狭い参道の奥の祠に石塔がひっそりと安置されている。
おお!金襴が掛かっています。やはり、金襴って立派。
現在ではこの石塔と大峰厨子町(おおみねずしちょう)の町名が残るだけだが、平安京当時の西洞院通は南北を貫く幅八丈 (約二四m)の大路で、一条大路の北に位置する辺り一帯は大峰野と呼ばれ、大峰寺という大寺院が在ったらしい。
大峰寺は大和の大峰山寺と同じく山伏たちの修験道場、信仰の場として栄え、境内が広く、宿坊も多かったことから大峰殿とも呼ばれていた。石塔は花岡岩製で高さ約二m、赤味を帯びており、仏像を刻んだ跡が見られるというが、 嗣の外観からその姿をはっきり確認することは出来ない。大峰寺創建当時から今に残るとも、修験道の創始者役小角(えんのおづの634~701伝)の墓とも役小角から数えて十代日の法嗣日円(平安初期の天台阿闍梨、811年に熊野神社を勧請したことで知られる)の墓とも伝えられる。
今昔物語集に登場
その大峰寺が、わが国最古の説話集「今昔物語集」巻二十九話「本朝付仕法(天狗、冥界 の往還、因果応報)」に登場する。 「今は昔、京に外術と云ふ事を好みて役とする下衆法師ありけり」
この説話は、法師が履物をイヌの子に変え、懐中からキツネを鳴かせて出し、馬や牛の尻から入って口から出てくるなど怪しげな術をやって見せて、人々を驚かせるところから始まる。以下、原文を意訳して読んでいこう。
隣家の男は羨んで、「私に術を教えて欲しい」と切々訴えるのだが、法師は「人に教えることではない」となかなか承知してくれな い。それでも諦めずに懇願すると、法師は「この術を習おうとする気持ちがあるのなら、ゆめゆめ人には知られぬように、七日間しっかり精進潔斎をして、浄く新しい桶を一つ手に入れて、それに美味しく炊いた交ぜご飯を入れ、自分で背負って、やんごとなき所に行って教えてもらおう。私は教えるのではなく、ただそこに連れて行くだけだ」 という。
男は法師の言葉に従い、家に籠って精進するのだが、その間にも法師がやって来て「この術を習うとする志があるのなら、決して刀を持って行ってはいけない」と懇ろに諫める。男は「刀を持たないことなど難しいことではない」と言ったものの、 「法師の言葉は極めて怪しい。もし刀を持たずに困難に会えば益はない」と思い直して、ひそかに小刀を鋭く磨いでおくのだった。
七日が過ぎた日の明け方、二人は出発する。男は刀を懐に隠し持って桶を肩に担ぎ、法師を前に立てて、どことも分からない山の中を遥々と進んで行くと、巳の時 (午前10頃)になり、立派な造りの僧坊が見えて来た。 男を残して法師が中に入って行った。見ると眉の長い、やんごとなさそうな老僧が出て来て、「お前は久しく顔を見せなかったではないか」と言うと、法師は「ついつい忙しく、久しくご無沙汰していました」と釈明して「修業をしたいと申す男を連れて参りました」と続けた。老僧は「お前はまた詰まらないことを喋ったな。ここに呼べ」と言う。呼ばれて男が後ろにたつと、法師は持って来た桶を受け取り縁側に置いた。老僧が「お前は刀を持っていないか」 と問うので、男は「持っていない」 と答えたものの、疎ましく怖そうなことこの上もない。
老僧は若い僧を呼び寄せ、「その男は壊中に刀を持っているだろう、探れ」と命じた。若僧が懐を探そうとするので、男は「自分の懐には刀がある。これを見つけられたら我が身に良いことなど起こらない。どのような目に遭わされるか。同じ死ぬのなら、この老僧を刺してから死にたい」と思って、 若僧が近づくや否や、密かに懐の刀を抜いて、縁側の老僧に飛び掛かった。 と、その一瞬、老僧も僧坊も急に消え失せてしまった。人を誑かした天狗の業
ようやく辿りついた僧坊。教えを乞うはずの老僧は、妖術を使う天狗だったのか。呆然とした男が 気を取り直して周りを見渡すと、 そこは大きなお堂の中だった。法師は「全てが台無しだ」とののしり、男は言葉もなく立ち尽くした。
「山中をはるばるやって来た」と思った場所は、一条西洞院の大峰寺だった。男は訳が分からないまま家に戻り、法師も泣く泣く家に帰ったが、二、三日後に死んでしまった。
全く天狗に摘ままれたような話であり、そのことを知らなかった男は死なずに済んだ。このような業で人を誑かすのは、まことに罪深いことである。三法に帰依しようと思うものは、決してこうした外術に手を出してはならない。
「比様の態する者をば、『人狗』 と名付て、人に非ぬ者也と、語り伝へたるとや」
このような途方もなく罪深い仕業をする者は「人狗」と呼ばれ人間ではない者だと、人々は語り伝えたという。これが「外術」と呼ばれる妖しげな術らしい。「今昔物語集」には、空を駆け、人に取り憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、 顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、多くの天狗説話が書かれているが、この老僧もそうした天狗の仲間だったのだろうか。藤原研子の火葬塚とも
この石塔はまた、わが世の春を謳歌した摂政関白藤原道長(966~1028)の二女、藤原研子 (きよこ、994~1027)の火葬塚とも伝えられる。研子は三条天皇の中宮で、二人の子である禎子内親王が東宮敦良親王のちの後朱雀天皇)に入内した半年後に病で崩じた。「日本紀略」に万寿四年(1027)九月十四日に亡くなり、十六日の項に「皇太后 (研子のこと) ヲ大峰寺ノ前ノ野 ニ葬リ奉ル」とあるのが根拠とされるが、確定には至っていない。
石塔はお堂の中にあるのかしら?この写真は昔の手水場のあとかしら。
さて、大峰厨子町からも程近い、一条通を西へ行った所にある石碑。
↑が一条小川角で↓が一条通、どんつきのマンションの手前に「堀川」という運河が流れていてその上に掛かっている橋が有名な一条戻り橋。
この一条通の右側に昔は「小川」という川が流れていました。小川通りを下ってきて一条で90度に曲がるんだそうです。中々流れのある小川だったという話をきいた事があります。
ここを西へ行くと小野小町が草紙を洗った井戸といわれる「小野小町雙紙洗水遺跡」があります。
この路地が小町通。
小町が草紙洗った井戸
大峰図子町からほど近く一条通を西へ。油小路通と東堀川通の間を北へ向かう小道を小町通と呼ぶ。堀川に掛かる一条戻り橋から東へ数十mの地で、西北角は青空ガレージ、傍らの電柱に隠れるように「小野小町雙紙洗水遺跡・小町通」と刻まれた小さな石碑が立つ。この辺りには昔、小野小町 (829~900?)が草紙洗いに使ったと語り継がれる井戸があり、清和水とも更科水とも呼ばれる京の名水の一つだった。江戸期には井戸の側に小町塔と呼ばれる供養塚もあったというが、その面影は全くなく、世阿弥元清(1366~1433)作の能楽「草紙洗小町」の舞台であることが今も地元の誇りになっているようだ。
そう言えば戦後のいつ頃までだったか、小川通の西側を並行して小川が流れ、一条小川で西向きに流れを変えて、戻り橋付近で堀川に合流していたことを思い出す。一条通は堀川から東へ緩やかに低くなっており、名水が湧き出ていた名残りなのかも知れない。
これは昔の端の袂にあった柱でしょう。たぶん。今出川の所にあったのかしら。今は昔のお話ですね。
今も小川は完全な暗渠として存在しています。一度建築現場で拝見した事があります。
昔はここに水がとうとうと流れて、染めた糸や、友禅をすすいだりなど生活があったんだろうなあといろいろ想像できて楽しい瞬間でした。川の土手には色々と樹も生えていたそうです。
この小さな小さな公園はもと小川の上に出来た公園です。なので、向うに続く家たちは暗渠の上に建ってるんですね。なんかすごい。
一首だけ洗い流された
これも平安時代の話。宮中新年恒例の清涼殿歌合で、小野小町と大友黒主が対峙することになった。「古今和歌集」にその名前を連ね、後世、共に六歌仙と称された二人だが、互いに詠んだ歌を比べて優劣を争う歌合で、小町にとうてい勝目がないと思った黒主は一計を案じた。前夜、小町の屋敷に忍び込み、小町が吟ずる
蒔かなくに何を種として浮草の 波のうねうね生ひしげるらん
の歌を盗み聞きして、それを懐に隠し持った万葉の草紙に書き入れるのだった。
歌合の当日、帝や紀貫之などが居並ぶ中、小町がこの歌を披露すると、黒主は「その歌は万葉集に詠まれているもの。盗作じゃ」。 小町は万葉の歌にも通じているので、そのようなことは決してないと思うものの、黒主は「それ、この通り」と万葉の草紙を見せつけ、攻め立てる。
小町は万座の中で反論も出来ず、貫之の計らいで帝の勅許をえて、その草紙を清い井戸水で洗ったところ、小町の詠んだ一首だけが消えて、身の証しを立てることが出来た。黒主は非を恥じて自害しようとするが・・・。
この井戸こそ一条堀川東入ル付近に存在したと語り継がれている井戸らしい。
能楽「草紙洗小町」では、帝は小町の取りなしで黒主を許され、 小町は薦められて御祝を謡い、和歌の徳を讃えた舞を披露して幕になるのだが、大友黒主には人を陥れるような行為があったという史実はなく、昔ばなしの中で免罪を着せられた被害者と言えよう。
同じ能楽の「志賀」では、黒主は和歌の徳を説く神として登場する。黒主が志賀の桜を眺めるさまをテーマにしたもので、祇園祭の 「黒主山」には杖をつき、白髪の髷の翁として登場する。この大友黒主は「万葉集」の編者大伴家持と同一人物だという説もあるが、本題から外れるのでまたの機会に。
(福井和雄)
上京区文化振興会 年2回発行 2016年vol.51より
堀川今出川の西側にある「京都市考古資料館」もとても面白いんですよ。お近くにお寄りの祭は是非足を伸ばしてみてください。