西陣織金襴の文化的役割
歴史的背景
西陣織金襴は、特権階級のための贅沢な織物として珍重され、発展してきました。神社仏閣の装飾、僧侶の袈裟などの「極楽を現す絹織物」として、能装束、掛軸の表装など、さまざまな用途で使用されています。 金襴は仏僧の袈裟や法具に多く使われ、紋様も宗派ごとに違うデザインでご用意します。この「西陣織金襴」という織物は、社会的地位の権力や富の象徴としても珍重され、権威を象徴するアイテムとして用いられました。
西陣織金襴の美学
製法の独自性
西陣織金襴の「引箔」は、専用に漉かれた和紙に、漆を塗り、本金箔を貼り付け(弊社の通常の本金引箔は能登の23金箔を使用しています)、細かく裁断して糸状にした「本金引箔」で織られます。
こちらの動画では、「本金の糸が作られるまで」の工程を解説しています。どうぞご覧ください。
和紙に模様を描いた「模様引箔」もとても面白い素材です。以下は模様引箔4配色の写真です。
紋様の豪華さ
金糸や引箔は絹糸と共に緯糸として織り込まれ、立体感と黄金色の輝きを放ち、紋様の豪華さを際立てます。職人の熟練した手によって、一枚の金襴が織り上げられるまでには、手織り、力織機共に、多くの時間と細心の注意が必要とされ、その技術の粋が尽くされた絹織物が表現されます。以下の画像は全て模様引箔を使用しているジャカード織物です。
金襴の美学と日本文化
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にも金襴について描かれています。金襴は、日本の伝統文化、伝統意匠としても地味だけれど重要な位置にあります。繊細でありながら豪華絢爛な金襴は、日本人の美意識を反映しています。
暗がりの中にある金色の光
諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちらちらと忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。それで私には昔の人が黄金を佛の像に塗ったり、貴人の起居する部屋の四壁へ張ったりした意味が、始めて頷けるのである。現代の人は明るい家に住んでいるので、こう云う黄金の美しさを知らない。が、暗い家に住んでいた昔の人は、その美しい色に魅せられたばかりでなく、かねて実用的価値をも知っていたのであろう。なぜなら光線の乏しい屋内では、あれがレフレクターの役目をしたに違いないから。つまり彼等はたゞ贅沢に黄金の箔や砂子を使ったのではなく、あれの反射を利用して明りを補ったのであろう。そうだとすると、銀やその他の金属はじきに光沢が褪(あ)せてしまうのに、長く耀やきを失わないで室内の闇を照らす黄金と云うものが、異様に貴ばれたであろう理由を会得することが出来る。私は前に、蒔絵と云うものは暗い所で見て貰うように作られていることを云ったが、こうしてみると、啻(ただ)に蒔絵ばかりではない、織物などでも昔のものに金銀の糸がふんだんに使ってあるのは、同じ理由に基づくことが知れる。僧侶が纏う金欄の袈裟(けさ)などは、その最もいゝ例ではないか。今日町中(まちなか)にある多くの寺院は大概本堂を大衆向きに明るくしてあるから、あゝ云う場所では徒らにケバケバしいばかりで、どんな人柄な高僧が着ていても有難味を感じることはめったにないが、由緒あるお寺の古式に則った佛事に列席してみると、皺だらけな老僧の皮膚と、佛前の燈明の明滅と、あの金欄の地質とが、いかによく調和し、いかに荘厳味を増しているかが分るのであって、それと云うのも、蒔絵の場合と同じように、派手な織り模様の大部分を闇が隠してしまい、たゞ金銀の糸がときどき少しずつ光るようになるからである。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」
金襴は単なる織物ではなく、文化です。伝統的な技術と美学が融合した金襴は、現代においてもその価値を失わず、多くの人々に愛されています。
西陣織金襴の未来
西陣織金襴は、その伝統を守りつつ、現代のニーズに応える製品開発を続けています。新しい技術とデザインを取り入れ、未来へと繋がる金襴を作り続けています。
西陣織金襴は、日本文化の象徴として、これからも多くの人々に「極楽を体現してきた絹織物」としてのハッピーな影響を与え続けていきたいと思っています。