こんにちは。
昨日の大阪市北区本庄西1丁目お地蔵さん~西陣織屋のお地蔵さん見物に続く大阪北区第二弾です。豊崎1丁目です。
有名な奈良時代のお坊さん「行基さん」が行基菩薩開基南濱墓所というお墓があります。行基さんの時代には僧侶が仏教を民衆へ布教することは禁じられていたのですが、その決まりを破って近畿を中心に階層を問わずいろいろな人への仏法の教えを説いて回った(回るついでではないでしょうが各地で大掛かりな土木工事もしてはります)、民衆に篤く敬われたお坊さん。たぶん、お姿は初期の僧侶の姿、糞掃衣(ふんぞうえ)をお召しになられていたのでしょう。糞掃衣について考え出すと私の仕事である「大乗仏教への金襴作り」について疑問がわいてくるのであまり考えないようにしています。しかし、豪華な仏教も伝統工芸を盛り上げてくれるのに大事でございます。
こちらの南浜墓地は昔「浜の墓」と呼ばれていました。淀川が新淀川と大川に分かれた中州の地に豊崎はあります。今は全く土地しかない住宅地ですが、その昔は湿地の多い大阪に特有の浜のつながる一帯だったのでしょう。今では信じられませんが梅田もほぼ同じ土地にあります。なのでこの土地が昔は「南浜」と呼ばれていたのも納得です。(北浜がここより南にあるのが不思議ですが北浜の北が何を基準とした北なのかわからないので・・・・)
約1300年前には亡くなった人を荼毘に付す(火葬する)には薪代などが係り、高価なものになってしまうので、一般民衆は土葬にするのが普通でしたが、行基さんによって火葬をする習慣が始まったそうです。それで大阪には浜・梅田・加茂(蒲生)・千日・小橋・鳶田(飛田)・葭原(吉原))の七か所に荼毘所が設けられていたようです。水の都の衛生面を考えると火葬が一番です。この墓はその中の一つで、土・木・石の三仏を造って安置したと伝えられています。火葬場だったんですね。この入り口にある地蔵堂の前には大正12年に豊崎町役場によって立てられた「行基ぎょうき菩薩開基南濱墓所」の石碑があります。
行基さんといえば、東大寺の大仏を建立するのにも一役買ったお方。火の鳥~鳳凰編に出てくる我王のお師匠さんかと思っていたらあのお方は行基さんではなくて良弁僧正でした。今まで間違えていました・・・。
明治24年建立のお堂は約4畳半。
道引之地蔵
天平19年(747年)に阿弥陀如来六観音と六地蔵が安置されたそうです。
こちらの阿弥陀如来が天平の作とは思えないので代替わりしていることでしょう。
こちらの地蔵堂では子供が出来ない人がおまいりに来て祈っていると一人の行者が現れて「道引之地蔵を信仰すれば願いは叶えられる」と言うのでその通りにしたところたちまち子宝に恵まれたそうな。と貼紙に書いてありました。地元の人からは“恋地蔵”と呼ばれているそうな。
こういうお堂にはよくあるほっとする一言。
写植ミス?というか原本にミスがあったのを鉛筆で直しているあたりがまたほっとします。皆、人♡
私も全部違ってますわ。そんなものよね~。
さて、以下は私の仕事のご紹介。西陣の金襴織屋、「金襴の輝きで生活を彩りたい」という思いで色々作っております。どうぞご覧ください。
テーブルランナーを飾り台などに掛けていただき生活にキラキラ☆を
素敵な香りと本金のきらめきを胸元や袂、ポケットに潜ませてと言う思いで作りました。匂い袋でございます。
今日の賄いは、アジの干物を焼いたん。他にも作ろうと思っていたのですが、昨日のミモザサラダと鰯の煮つけが結構残っていたのでアジを焼いただけでございます。