今日はかなりひんやりしている京都です。
先日の土曜日は暖かかった。雪柳が満開です。
雪柳、私、大好きなんです。
京都中、どこもかしこも花見花見のぽくぽくと歩く人波の中、鴨川にかかる御池大橋を渡ったところ、雪柳・がわさわさわさわさわさ。
水面が春やなと思いました。
一株じゃなくてたくさん植えてある雪柳が好き。
春はいいですね。どことなく花の香りも芳しく、最高。
さてさて今日のブログ。室町通と一条通が交わった所のお地蔵さんのご紹介です。
マンションと一体化されています。
ここの南側には富岡鉄斎さんとう方が住んでいはったお家が残っています。
富岡鉄斎翁、むっちゃかっこいい。
こんな飄々たる感じの方が住んではったんですね。
wikipediaをざっと読むと「ちょっと耳が悪かったけれど賢い上に絵が上手」というお方。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
すごいです。
明治7年の北海道って大変なはず。
平成25年の今でも電車で関西空港まで行って飛行機に乗って千歳から移動するのでさえふらふらになるのに。
歩いて青森まで行って津軽海峡を船で渡って(たぶん小さい船だろうから船酔いしそうだし)北海道に行くなんて。情熱の人ですね。
今まで富岡鉄斎さんって「とらやの虎を描いた画人」というイメージでしたがむっちゃ情熱の人なのですね。
「とらや」は今でこそ明治の天皇陛下が東京に行ってしまったのと一緒に本社は東京赤坂に引っ越して(天皇が召し上がるお菓子を用意するためにとらやさんも同行されたそうです)しまいましたが、ほんまはこの鉄斎さんの住んではった室町一条近くの「烏丸一条」が創業の地です。
それで「とらや」さんのお家の方々と仲が良かったらしいのです。その縁で「とらや」さんの虎の絵を描かはったんですね。
余談ですが、とらやの羊羹は美味しい・・・。
子供の頃はあれを恵方巻きの様に一本食いしてみたいものだと思っていたら、ちゃんと一本食べサイズのミニ羊羹があります。おやつに丁度良し。最中も美味。
羊羹についての薀蓄を一つ。
「羊羹」と書く事、不思議じゃないですか?
なぜに羊の羹(あつもの–呼んで字のごとく温かい汁物の事をあつものといいますね)なのか?羊でも汁物でもないですからね。
もともと中国で生まれた「羊羹」は羊の肉のスープだったそうです。
しかし昔々といえば中国へ留学に行くのは主に知識階級としての僧侶。
僧侶は肉食を禁じられていたため、小豆や葛などを使って羊の肉に見立てた精進料理をしたてて食べていはったそうです。
その小豆部分がクローズアップされてきたのか汁に入れずに蒸した羊羹が登場して(丁稚羊羹が有名ですね)それが更に洗練されて寒天を使った練羊羹として進化して行ったそうです。練り羊羹が生まれたのは江戸時代後期といわれています。
江戸前期の作家、井原西鶴(1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年))も6月16日にお菓子を食べて厄除けをするという「嘉祥の儀式(かじょうのぎしき)で虎屋の羊羹を食べたと書き残してはります。
これでなぜに「ひつじのあつもの」なのかという疑問は消えました。
そんな鉄斎さんの住んでいはったお家のとなりにあるお地蔵さん。赤いおべべに・・・ん?
久しぶりに金襴を発見しました。軽い色の金襴です。打敷にされています。
こちらのお地蔵さんはノーメイクですね。
お地蔵さんの南側に「富岡鉄斎邸跡」の石碑。
今は京都府議会の公舎となっています。管理人さんが南隣にお住まい。
その更に南にある3階建ての洋館は書庫だったそうです。
鉄斎さんは1882年(明治15)から1924年(大正13)に89歳で亡くなるまでここに住んでいて沢山の大作を生み出さはったそうです。
しかし鉄斎さんは、学者(儒者)が本職だと思ってはったようで、絵画は余技だと思っていたそう。
ここのお地蔵さんの場所ととらや一条店の真ん中くらいに新しい建物で「虎屋茶寮」があります。とてもしっとりと落ち着いた建物で庭もきれいに望めてとらやの美味しい葛切やかき氷を食べられます。
併設されている白タイル張りのギャラリーでは虎屋収蔵の美術品を見せていただけます。私は菱川師宣や伊藤若冲を見てきて喜んでいました。
京都見物でちょっと疲れたら休憩するのにちょうどよろしおす。