代々木 尊皇攘夷の支柱となった平田篤胤さんを祀った平田神社~西陣織屋が金襴をさがして

こんにちは。京都西陣の金襴織屋、岡本織物です。

12月に突入してしまいました。

平田篤胤(ひらたあつさね)という名前を耳にした事のある人は多い事でしょう。
江戸時代後期の秋田出身の国学者であり神道家であり思想家でありお医者様です。別名スーパーマンとも言います。

篤胤さんの学説は幕末における尊皇攘夷の支柱となりました。
尊皇攘夷とは私も詳しくは知りませんが(すんません。幕末の小説大好きなのに理解できてません。)幕末にペリーが黒船でやってきた時に、日本人は皆たまげたのです。腰を抜かすほど。
そうして「赤ら顔で赤い毛の異人とはつきあうわけにはいかん」というえらい人種差別が起こって外人さんを毛嫌いする人々が大勢出ました。
ただ単に人種差別だけではなくてそのころの列強が各地を殖民地化していたのを知っていた知識階級もいたのでどうにかして異人と対決せねばならん。と思った人々もいたのです。

1:日本を開いて異国と対等に付き合う努力をしようという人たち。
2:日本のような天皇が鎮座する神の国に異国人が立ち入ることすら許さない。天皇を旗印に異国人(夷人)を日本から追い出せ!その為には開国しようとしている幕府を倒せ!

というかんじに知識階級が分かれました。
その主に2の人たちを「尊皇攘夷」というのではないでしょうか・・・。間違えていたら申し訳ありません。是非、ご教授お願いいたします。

どちらも日本のことを考えていたはず。アプローチの方法が違っていただけ。だけれど、結局は1の人たちが主勢を締めてくれて良かったですね。

wikipediaによりますと、

篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。

代々木 平田神社
代々木 平田神社

そんな彼が祀られたのがこちら、代々木にある平田神社。いまや3階建て鉄筋コンクリートです。

代々木 平田神社
代々木 平田神社

御祭神は「平田篤胤大人命」明治維新後平田家邸内(東京柳島横川町)に邸内社として創建したらしいです。明治14年に明治天皇より下賜金を賜りそれをもとに文京区小石川へ遷座した後、昭和34年この代々木へ遷座したとあります。

代々木 平田神社
代々木 平田神社

金襴ありましたね。御簾と、戸帳ではないし・・・上の飾り布はなんと呼ぶのでしょうか。色合いも爽やかな金襴です。

代々木 平田神社 金襴帽子
代々木 平田神社 金襴帽子

あ、こんなところにもいい、金襴。

代々木 平田神社 金襴帽子
代々木 平田神社 金襴帽子

私の帽子。金襴とフェイクファーでベレー帽

代々木 平田神社
代々木 平田神社
代々木 平田神社
代々木 平田神社
代々木 平田神社
代々木 平田神社

中々清清しい社殿ですね。

ここ、代々木は歩いていると個性的な家があったり路地があったり中々表情豊かな散歩するのにぴったりな所です。

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